言語化されない思考

 ひとつ前のブログで、横道にそれそうになって、止めた話ですが。

 そう、頭の中で、思考が噴き出してくる話。

 そこからまた、考えるともなしに、かんがえがゆるゆると流れています。

 お昼御飯のデザートにシュークリーム食べながら。だから、リバウンドするんやな。

 

 この頃、いぢわるばあさん全開なので、ついでと言ったら何なんですが。

 以前、「語彙力」みたいなタイトルの本を読んでいて。

 ↑タイトル、覚えてないし

 その中に、人は、思考するとき、必ず言語を使って思考しているからという主旨の記述に、引っ掛かってしまいました。それは、どうかな?テレビにも出られている人のベストセラーに、ツッコミを入れるヤツ。

 確かに、言語を介して考えている瞬間もあると思うんです。

 私自身は、結構そうです、多分。子供の頃、口から生まれてきたと父に言われてました。あ、溺愛はされてたようですが、それだけにダメ出しも多かったんです。

 言語を介して考えているということは、もちろん、語彙力も、ないよりあった方が良いのかもしれない。ある程度は。(何でも、ほどらえっていうんですか、ありすぎて、メモリーが一杯になったら、フラグメンテーション起こして、思考の邪魔になりやしないか?って、疑問もある)

 でもね。

 自分がものを考えているとき、言語介してないんやろうなと思う瞬間があります。

 この、噴き出して来るというのがその一つなんです。

 

 以前、かつての生徒さんが、本を読むとき、頭のなかで音声変換して読む人と、音声変換しないで読む人がいるそうですよって言うので。なるほどど思った。

 私は、あるときから、音声変換するようになったなあと思った。SF小説を読むとき、声優さんの声で、セリフ変換して遊んでいた。クラッシャージョーとか。古!

 もしかして、その前は、音声変換してなかったかも知れない。

 で、思い付いたんですが。

 本を読むのが早い人は、音声変換してないのではないか?と思って、生徒さんたちに聞いてみた。

 音声変換派も、結構いました。

 で、かつての生徒さんで、本を読むのが早い人二人に、「音声変換してますか?」って、聞いてみた。

 案の定、「?」って、反応でした。音声変換をして読むという概念がないんですね。

 で、そういう人がいるんですよって、説明した。

 重ねて聞いてみた。

「読んだとき、どうなるんですか?」って。

 一人の人は、文字が頭に入ると、直で画像変換していると思うと、考えながら答えてくださった。

 どうしても、音声変換すると、音声が流れるだけの時間を要するので、本をそれよりも早くは読めないはずだ。

 まあ、それでも、この場合は、言語が介在していますが。

 

 人は、言語を介さずに思考しているときがあるはずだ。

 トンボ玉を巻くとき。

 野球で、相手の動きに合わせて、咄嗟に反応するとき。

 他にも、いろいろ。

 

 私は、どうやって、ものを考えているんだろう?

 これって、メタ思考って感じでしょうか?思考することについて、思考する。わ、めんどくさ!って、思われそう。

 自然を観察したり、新しいことを聞いたりするとき、興味のあるものだけに意識が向いて、理解しようとする。

 頭の中の情報を引き出して、どういう意味なのか、考えて。似たような現象を引き出したりして。

 でも、分からないものは、分からないなりに、分かった範囲で、収納する。

 なぜそう思うか聞かれると、言葉では説明しにくいですが、この時、言語でない概念に変換されて収納されてるんじゃないかと思う。だって、言語で全てを表せないこともひっくるめて覚えているからなあ。あえて言語でいうなら、行間?

 で、何かの答えを探すとき、言語でない概念同士を照らし合わせて思考して。その思考を、後から追うように、言葉が流れてるんじゃないかと思う。

 それは、今、急に書きながら思った。

 だって、言わんとしていることがあるのに、「どう言うたらエエんかなあ?ほら、あれ、あれよ!」って、言葉を探すことがあるもんね。

 実際には、どうか分かりませんが。

 

 話は、まだ続く。

 小見出しつけた方が、エエかも。

 友人が、言うてました。

 とある人が、漢字を読むのが苦手らしく、その人は、料理人で。文字読むのが苦手でも、こんなに美味しいもの作れるんやって思ったって。

 この話に、未来のヒントが、隠されていると思います。

 誰かに情報を伝えるとき。

 文章で、手紙書く。

 レポート書く。

 そこに、絵を描いて説明する。

 学校のお勉強には、言語が、文字が、必ずついてきました。

 紙に書くなら、絵が超うますぎる人なら、絵だけでも良いのかもしれないけど。なかなかそうは行かず、じゃあってことで、文字。

 特に、ネット上で情報を流すとき、最初は容量の限界のせいもあって、やはり文字情報。

 でも、今や、静止画、動画、立体映像と、言語以外の情報がやり取りできて。

 取説も、動画で良い訳やし。

 言語を操るのが得意だった人だけが特に有利だった時代が、終わろうとしているかも知れない。

 教育で、なにかを教えるとき、立体画像、動画、音楽といった情報を作りやすくなってきたら、文字で書かれた教科書に、いつまでもこだわる必要なんてないんやなって、思う。

 料理や、工作など、ダイレクトに直感に訴える方法で教わり、時々、言語で補足される。

 そうなったら、イメージ情報優位だった人の表現方法が広がって、今までに実現できなかったコミュニケーションが、実現するかもしれないなあって、思うんです。

 評価をどうするのか?

 それが難しい。

 工芸をやっていて思いますが。

 同じ世界で生きていると、誰か見ても、上手い人は上手い。

 そこには、材料を操る能力だけでなく、優れたデザイン力だったり、上手いということ1つとっても、複数の要素がある。

 評価をするには、そのジャンルでの能力が高い必要がある。

 まあ、自分よりすごい人がすごいとは気づくので、全能レベルですごくなくても評価って、できるんかな?

 

 ちょっと飛躍しますが。

 今までの学校教育は、平等であろうとするあまり、とても単純化した問いとその答えの正解率で、評価してきたんだと思うんです。

 トンボ玉をやってて思った。深いなって。

 それを言い出すと、スポーツもだし、女子力の高い人の相手への気遣いの的確さもだし。

 学校で習ったことは、単純化しやすいジャンルに限られてたんじやないかな?って。

 急に、そこを変えることはできないと思うけど。

 みんな、今までの教育のできること、できないことを、頭の隅に置いて、学校教育というツール?を、使うべきなんじやないかなあって、思います。

 SF作家になりたかったトンボ玉作家の、駆け巡る、未来の妄想でした。

 長!

 

 は~、今日は、このくらいにしといたろ。

 

 

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