考え事、加速中

 趣味、考え事。

 物を考えること自体が好きだというのを、いつくらいだったか、自覚した。

 なので、コロナショックなんていう事態が起こると、ものすごく、考え事の脳みそが刺激される。

 いや、介護の時もそうだった気がする。

 介護の時も、いろんな未体験のことが降りかかるし、両親の違う面が見えて来るし、未体験の事柄を自分がどう感じたかというのも。

 あれ、そういえば、原発事故の時もや。思いがけず、原発廃止に向かわない展開に、驚いた。

 いやいや、そういう意味では、会社員の頃、すでに仕掛品になっているシステムが、もうアカンやろみたいに煮詰まっているものも、じゃあ止め!って、決断できないんやなあと思ったことも。

 いやいやいや。

 まあ、何を見ても、自分を刺激することには、ものすごく注意が向く。

 で、すべきことをすれば良いんだけど、お留守にしてまで、考え事。

 金稼げ!っちゅ~ねん!

 コロナの昨今はともかく、その前の時点ね。

 まあ、母やランの命をつなぐ部分は、後回しに出来ないので、やってます。

 というか、それが「関心事」になっていれば、自然と優先順位が上がるからなのか。

 

 というわけで、コロナ関連から始まって、なんか一般化したことも、考えてしまっている。

 一つには、コロナ対策と、経済対策の関係を、どう考えたら良いのか?ってとこですかね。

 経済がダメになると、自殺者が増える。それは、テレビで言われるまでもなく、思った。

 ホンマに、考えたとしても、言葉にするのは不謹慎かといつも思うのですが。

 新型コロナのシナリオは、SFとして考えた時にも、これ以上ないくらい、巧妙なストーリー展開になっている。

 前回書いた、全て読みが外れて、裏をかかれるように事態が進み、まだこれでもか!これでもか!って、次々と厄介ごとが用意される。

 見えない内に、感染が広がり。

 軽症者が多いと油断したら、軽症と思っていた人の一部が、不意に悪化して死に至る。

 抗体を持っていても、再燃するのではないかという可能性も言われ始めた。

 が、みんなが重症化して多くが亡くなるというわけではないから、油断して、軽率な行動の人もいるし。

 知性が高いとされる人の中にも、経済活動再開を、早くからいう人もいる。

 マスクは、予防効果よりも、感染させないためとはいえ、直接飛沫を浴びるリスクの高い医療従事者にとっては、感染を防ぐための物なのに、医療施設で不足しているはずのマスクを、一般の人がそこそこしか混んでない街中でつけていることも、不思議。それを欲しがって、行列を作る感性の人がいることも、シュール過ぎるけど、現実。

 そういえば、お気に入りの玉川さんは、やっぱり嫌いな人が多いらしく、ネット上で「ボロクソ」に書いている人がいるんだけど、書いている内容が、玉川さんの発言と矛盾していて、ああ、見てないけど気分で嫌いだから批判してるんやなあっていう実例を見るときに、人間の行動って、そうなんやなあって思う。

 「最悪の事態を想定して動く」もなんですが、騒ぎすぎ、煽りすぎと言われてしまうと、辛いなあと全く思わないかというと、人間なので嬉しいはずはなく。その最悪に、かなり近づいて行っていることに、暗澹たる気持ちになることもあるのに、「ほらごらん、油断して良いってもんじゃないねん」って、思っている自分もいて。決して、そっちに行って欲しかったわけではないんだけどねと思ったりする。

 いや、それにしても、日本がこんなに緩い対策しか打たないのに、広がりがゆっくりなことも、なんだか気味が悪い。

 それなのに、今は、緩く時間が流れていて、深刻なはずなのに、何かをできる訳ではない。まあ、自己啓発とかくらいですかね、できて。

 しかも、ストーリーは、まだ半ばで。

 封じ込めのための道筋は、まだぼやけたまま。

 ある程度、季節性で、感染度合いが変わるのかも知れないし。

 もしも、一旦感染してしまうと、ある程度強毒のまま、ずっと内側に持ち続けるような種類のものであったとしたら、それが休眠しているだけなのだとしたら、生き方そのものを考えないと、無理をして体力を奪われると顔を出して、急激な悪化で死に至るという爆弾を抱えてしまうことにもなる。

 感染の拡大を考えた時に、ワクチンができれば、一定の活動は大丈夫と考えて良いのかも分からない。

 経済そのものも、どう転んでいくのか分からない。

 どんな時代を生きることになるのか、全く分からない。

 年金制度にしても、医療保険制度にしても、今後どうなっていくのかも分からない。

 でも、自分の中で、自殺はないなと思う。ホンマかな。究極お金に困ったら、その自分自身の状況の悲しさが嫌になって、自殺考えたりするんやろか?

 何を悲しいと考えるかではある。

 みんなが苦しくなって、自分だけじゃないからって思ったら、その状況を悲しいとか思わないのかなあ?

 それは、その時になってみないと分からない。

 いやいや、意外と、なんかすごいことが考え出されて、画期的な未来があるかも知れない。

 未来は、本当にどっちに転がるのか分からない。

 今でも、人とのつながりを、考えさせられてる訳やから。

 とんぼ玉教室をやっている関係で知ることになったんだけど、カルチャーセンターは、全国的にここ10年の間に、どんどんダメになって行き、生徒さんの高齢化も進んできたそうで。

 それでも、人と人がリアルにかかわる場所を提供することの意味はあるはずなんだと思うけれど、全然要らない物ではないと思うんだけどっていう話があって。何が違う形に変えていくことで、時代にマッチした何かが、潜在的に求められている人との関わりの場所のありかたって、本当はあるのかなあと、考えることはあった。

 そこまで考えたところで、順調に終息して、何事もなかったかのように、全てが元に戻ったとしたら、それも裏をかかれた感じにはなるけど。

 

 激動の時代にいるんやなあと思う。

 

 ただ、過去も、平坦で定常的な世界だったかというと、きっと違うな。

 うちの祖母のことを考えても。

 大きな靴下工場とか、大手の紡績会社のニッケとかができて来て、小学校を上がったら、寮に入って雑魚寝して、稼いで小作の農家だった家計を助け。

 戦争を経験して、テレビが家にやって来て、孫は海外旅行する世代になり、とんぼ玉作家なんていう趣味か仕事か分からん仕事に転び、大腿骨骨折したけど手術とリハビリで2度の復活を遂げ、101歳で亡くなった。スペイン風邪の時代も乗り越えたんやなあ。

 母は母で、バブルの頃に、かなり会員権のお高いゴルフ場のキャディーをして、大山のぶよさんや他の芸能人、会社社長、ゴッドハンドと言われる医者に、ゴルフ場で遭遇したらしいし。

 「花子とアン」にも出てきたように、父の幼少期と、その何十年か後では、単位面積当たりの米の収量が何倍にもなったし、機械化が驚くほど進むのと同時に減反政策で米を作らない田んぼに補助金をもらうし、いよいよ最後のところで、10年以上かけてどんどんヤバく太ってしまった娘が米を食べずにダイエットに成功してしまうわで。

 激動でなかった時代は、たぶん、いつの時代もなかったと思う。

 どうなるのかは分からないけれど、私は、ちゃんと生き抜いて、その後の顛末を、見届けたい。

 どこまでも、世の中がどう変わるのかを、見てみたいけど。まあ、きっと祖母ほどの長生きはムリやけど、行けるところまで。

 

 そんな風に考えていると、それぞれのところで深堀りして、ヘンな事を考え続ける余地はまだまだある。

 だって、面白いんやもん。

 で、手が止まる。

 今から、働いて来ます。

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