人は、社会的な仮面を被る。
「ペルソナ」という。心理学の用語かな?
20年くらい前、そこを指摘されたことがある。
私が、赤裸々でペルソナをあまり被っていないことを、指摘されたことがある。
実は、そんな意識さえなかった。
さすがに、それは必要だなあと思うし、程よくかぶっていたいと思いつつも、このブログでは、ペルソナ壊れがちだと思う。
それでもまあ、もともとその傾向があるとはいえ、若いころの私は特に、「論理的な私」を強調するペルソナを被っていたともいえる訳で。
さすがに、この頃は、やめた。
自分サイズくらいにしておかないと、論理が破綻した時がしんどいもんな。
大体、バレると思って生きている。
人は、人をかなり誤解して生きているけれど、でも意外と見抜いていると思う。
なぜなら、人は、強いし、弱いし、ずるいし、公正だし、色んな部分をみんな持っていて、他者の中にあるそういう物と、自分の持つものが似ていることを分かるからだと思う。
ずっと前に、読めなくて放りだした本があって。ミラーニューロンの発見とかいう本。
とんぼ玉を作ることを例にとると。
私がデモをしているのを、背後で生徒さんが見ている。その時、私の手を動かすための脳の部位は働いているのはもちろん、それを後ろで見ている人は、自分の手を動かしている訳ではないのに、脳の同じ部位が働いているんだそうだ。
相手の行動を、脳がなぞることによって、その意味を、自分の脳の中から引き出してくるような仕組みなんだろうなと、勝手に解釈した。
そういう意味では、まあ、何でもそうなんだろうけど、とんぼ玉を教える仕事も、面白いもんだなあと思うんです。
本題から、逸れてますわ。
そう、ブラックな私。
この頃のコロナ禍を、どう見るか?
時々そう思います。
やっぱり、玉川さんが「最悪を考えて備える」主義だったのと、それに共感する人たちが作る番組を見ている私が、「最悪を考えて備える」主義だったから、めっちゃエスカレートしたんやろか?
とか、見直してみる。
分かりません。
やっぱりやり過ぎた~!って、緩めて良いのかどうかも、まだ判断できません。
やはり、若い人は重症化しないという傾向から、当然みんな考えるよなあと思える意見が、匿名でありながら出てきます。
自然に任せて、弱い人が亡くなるのは歴史上普通にあったことだから、それで良いじゃないか。
高齢者のために、若者を犠牲にして良いのか?
高齢者に一年と、若者の一年は、同じ価値なのか?
じゃ、良いか。って、なかなか言えません。
MRSAというのがあります。メシチリン耐性黄色ブドウ球菌です。
メシチリンという抗生物質を一時使い過ぎていたがために、耐性菌ができた。黄色ブドウ球菌というのは、人間の皮膚の上にいて、割と多くの人が持っていますが、人間の皮膚の上では、極端に増えることはない。ただ、これが食品にくっついて、長時間生ぬるいエエ感じの温度でキープされると、増えて食中毒を起こす。
騒がれ始めたのは、20年くらい前でした。
その時、祖母が交通事故による骨折でだったか、入院していたんですが、出ましてね。院内感染が。
個室に厳重に隔離された。
気丈だった祖母の口から「エライもんにかかってもて、こんなんやったら、いっそ死んだほうがエエわ。」という、ヘヴィな一言でした。
私と父は、持病もなかったので、気を付けつつ普通に面会に行きました。
ただ、油断したら、病院内に広げてしまう、持病のある母に移してしまう。内心、ヒヤヒヤでした。
厳重な割に、対策に穴があることに気付いて、気になって仕方なかったっけ、当時。うるさい奴なんで。
それから、15年以上たっていましたが、父の終末期に、検査でMRSAが出ました。
これは、あとから思ったのですが、院内感染でなく、父がもともと持っていたんだと思う。タイミングも早かったしね。
ほら、祖母の時に接している訳ですから。
個室に移された父の周りは、厳重な感じに。
え?厳重な感じに?
何か、昔ほど厳重でなくなっていました。
祖母が、いっそ死んだ方がって、嘆いていたのは何なんなん?
もちろん、一定の注意は払いつつ、もう世間に広がっているので、厳重過ぎる合理性がなくなっていた。
一部、感染症にものすごく弱い病気の方のケアでは、今もとても厳重らしいのですが、それ以外は、必要最低限になっていた。
どこまで危険なのかが、時間とともに評価されていった結果ではないのかなあと思います。
なので。
そうだ、新型コロナも、まだいろいろ出てきていて、不安が残る中、「そこそこでエエやん」と、言い切ってしまえないのは、まあ当然やなあと思った次第です。
怖がり過ぎ、インフルエンザの方が、もっと多くの人が死ぬと、主張する人は当然いて。
当然ですが、私も、それは考えた。
過剰に清潔にするのがもともと嫌な人だし、ゼロリスクみたいな考え方は、まったくもって合理性がないと日ごろから思っているので。
でも、コロナに関しては、賛成できない私がいた。
何なんかな?って考えてみた。
簡単に言えば、検査があって、まあまあの治療法があって、そこそこ見つけてもらえて、治療を受けられたうえでという流れなら、きっとインフルとほぼ一緒になる。あと、ワクチンができればね。
ただ、高齢者施設では、不顕性の感染者が感染を広げるという特徴から考えたら、ある程度の基準で、スクリーニングのために検査が行われなければ、インフルと同等と考えにくいのかと思う。
不顕性の感染者が要るのは、ノロウィルスも一緒なのは分かっている。
ノロウィルスでもなくなることもあるけどね。
高齢者が亡くなるのは、インフルでも、ノロでも、誤嚥性肺炎でもあることなので、良いじゃないか、なのか?
違うとすれば、比較的元気な人が亡くなることかな。そして、重症化した時の医療資源を食うために、医療現場への負担が大きい事。
そんなことを、ランちゃんの散歩のときに考えていた。
そして、ブラックな私登場。
比較的元気な人が亡くなることがある。
重症化した時に医療資源を食うために、医療現場への負担が大きい。
そうか。
どういう過程で思いついたかは忘れた。
実際に、そういうことをすべきかどうかは分からないけど、他人事感満載の「良いじゃないか」説の奴らに、一言、返せることを思いついた。
だったら、一筆要るで。
終末期医療というものがある。
弱って来ていて、インフル、ノロ、普通の風邪、誤嚥性肺炎など、日々のことでちょっと負担がかかったら亡くなってしまいかねないくらいになったときに、説明を受けるんですよね。
いよいよの時、どこまで治療を希望されますか?って。
人工呼吸器は?酸素吸入は?
症状によるけど、胃ろうは?栄養補給のための点滴は?
何もしませんという選択肢もある。
どこまでできるのかは、病院や、施設によって、できる選択肢が違ってきたりもする。
人工呼吸器を使うところからは、「延命治療」になる。
父の時に、延命治療はしないにした。状態を考えたら、胃ろうをしたら、もっと持ったかもしれない状態だと理解していた。
本人の認知度も、体が動きにくいから意思表示ができないだけで、おそらく、周囲に家族がいることが理解できるくらいだと思っていた。
胃ろうと、人工呼吸器は選択しなかった。
絶対正しいと思ったわけでなく、迷いはあったし、当時は、本当に良かったのかと自問していた。
おそらく、新型コロナで、「良いじゃないか」作戦で行くなら、少なくとも、高齢者と持病がある人に関しては、元気でぴんぴんしている時から、「いよいよの時」は、どこまでの治療を希望されますか?という確認をしておく必要があると思うな。
エクモは希望されますか?
人工呼吸器は希望されますか?
酸素吸入は希望されますか?
他にも、薬をどうするのか?栄養を摂るのをどうするのか?
いろんなことを確認しておかないといけないけど、薬や栄養の方は、まだ、医療資源が不足や医療への負担は、呼吸器なんかと比べたら小さいはずだ。
で、一筆、日付とサインを各用紙には、こう書かれている。
トリアージにより、ご希望に添えない場合がございます。また、トリアージにより、治療を中断する場合がございますので、ご了承ください。同意するに丸印を入れる。
野放図にして感染を広げたうえで、医療を受けようというならば、そのくらい、最初に決めておいて伝えておかないと、病院サイドは、やってられないでしょうよ。
他人事で、そういうこと言うなよ。
一回考えてみ?
*追記 説明不足ですね。このままなら、ハイリスク者にだけ、厳しい現実を突きつけるかのような内容で。介護が身に迫る日がまだ遠いと感じているからこそ、他人事でいられる若い人たちであっても、すでに、親世代に、そういう現実が迫っているという意味で、自分のこととして考えて欲しいということでした。
まあ、偉そうなことは言えない。
私自身も、介護が身に迫るまで、他人事だったから。
とりあえず、しれ~っと、そういうこと言える奴には、一回、身に迫ったものとして感じてから、そういう言葉をまじめに論じてもらいたいもんやなあと思ったりもする。
まあ、MRSAのこともあるし。
検査とお薬とワクチンが揃って、色々と症状についても分かってくれば、折り合いをつけるというか、落としどころを探して行くことにはなるんだろうなって思うけど。
どこか、期待しているところはある。
今までの延長で考えたら、ワクチンにはこのくらい、集団免疫とは言えないまでもいくらかは免疫を持っている人がゆるっと広がった状態(それを集団免疫というのか?)まではこのくらい、みたいな、長い戦いの見込みがあって。
でも、英知を結集することで、もうちょっといい話って、聞けないのかなあと思ったいたりする。
母にもよく言うし、自分自身でも思っている。
医療も発達するので、長生きした方が得かもね。
いろんなものに負担をかけつつというのがあるので、大きな声で堂々とは言えないところはあるけど。
長生きした方が得かもね。
景気が悪化すると、自殺者が増えるという、あの話が辛い。
自分自身も、何か、自分に自信がなくなって、何してきたんやろうって思う瞬間、他人と比較して、自分がつまらないと思った瞬間に、絶望が来るのかも知れないと思う。何にも、何の実績も残してきてないんちゃうんって、自分を肯定できない瞬間がなかった訳ではないので。
でもなあ、考えようですよ。
コロナ禍は、自分だけじゃない。
一斉に、ドン!で、いろんな人が多くのものを失う。
生き抜いた方が得って、思えた方が勝ちやなあって。
散漫な感じになったので、今日のところは、このくらいで。