昨日の午後、神戸新聞文化センター加古川支部に、バーナーやガラスなどの備品を引き取りに行きました。
加古川へ行く、慣れた道のりを車で走りながら、じんわりと感慨にふけっていました。
今年の4月で、丸13年になる年月でした。
思い返すと、いろんな方とお会いした年月でした。
本当に、お世話になりました。
ありがとうございました。
これまで、受講して下さった皆様にも感謝です。
本当にありがとうございました。
元々は、3月末で閉講する予定でしたが、コロナによる自粛で3月前半から休講となり、そのまま終了しました。
少し思いがけない終わり方になりました。
ふく蔵さんの作品展や、作品展を優先して後回しにしていた用事などをある程度済ませたので、ようやく引き取りに行ったのです。
次の講座のことを考えると、お道具を置きっぱなしなのはご迷惑かと気になっていて、やっと。
ご連絡すると、神戸新聞文化センターは、3つの支所を閉じる方向で、加古川もその一つ、10月いっぱいで終了ということでした。
ああ、そういうことなのか。
それを聞いていたこともあり、時代やなあと思いつつ、加古川べりを走ったのです。
世間では、軒並み、カルチャーが下火になって来ているそうです。
時代の流れですね。
カルチャー全盛の頃、生徒さんが、習い事を探そうにも情報媒体が限られていて、新聞に入る華やかなカルチャースクールの折り込み広告で情報を得て。
コンクリートの当時としてはおしゃれな教室で、習い事をする。
右肩上がりと言われた時代には、専業主婦も多かったので、平日の講座が中心で、加古川支部は、日曜はお休みです。
当時としては、カルチャーに通っている私は、先端で、行けていて、おしゃれで、幸福な私だったのかなあ。
ちょっと前までは、かわいい手作りの作品を「手作り市」で販売して、そこでいろんな人とお会いして、作ったものを喜んで買っていただける。
手作り好きな多くの人が、作家として発信できることが、先端で、行けていて、おしゃれで、幸福なことに、シフトして行った。
これから、密を避けるという意味では、形を変えざるを得ないのか?
しばらくして落ち着いたら、また今まで通りに戻るのか?
その時になったら、見えて来るでしょう。
次の、新しくて、行けてて、おしゃれで、幸福な私が、何をしているのかが。
私がKCC加古川の講座を始めた時、まだ、情報を集めるメディアは、新聞広告でした。
受講希望の方も集めていただけたし、相乗効果で小野教室にも生徒さんが来て下さった。
この13年で、発信の方法やおしゃれであることの内容が、移り変わって行くのを、リアルタイムで感じていたことになります。
途中は、焦りもあったけれど、最近は、そういうことなんだなあと思うようになっていた。
先日お会いした方で、とてもお近くの方が、私がふく蔵で作品展をしていることを、今年、終わった直後に初めて知られたそう。
教室にも興味があったけど、あることもずっと知らなかったそう。
以前から、そういう話はよく聞く。
発信が、圧倒的に足りなかったんだなあと思うし、仕事と考えると、発信は立派な業務の一つなんだけどねと思うこの頃。
上手く回っていた頃は、KCC効果で、あまり発信しなくても、運よく一定の人たちには届いていた。その時ですら、届く場所に偏りがあったということなんですね。
仕事として、中途半端だったんだなあ。
焦って、手を広げ過ぎて、どこも中途半端にしながらいっぱいいっぱいで、あの頃、広報までできたかというと無理だったと思う。
今、本当に、絞って絞ってすべきことを減らしている。
無理のない範囲で教室をして、じっくりと落ち着いて作品を作りたい。
そして、丁寧に知っていただくための発信をしようと思います。
と、方向性もまじめに書いてみた。
加古川べりを走りながら、しみじみと考えていた。
時代の流れという物。
自分で物を決めていると思いながら生きていても、必ず、時代の流れの中にいる。
私が会社員だったころ、北海道立近代美術館が主催したガラスの公募の入選作品の巡回展を、大阪駅前の大丸の美術館で見た。
今、ググってみると、記憶では、最終回の一回前で、トリエンナール(3年に一回の開催)形式だったのと、入選作が決まってから巡回するタイムラグが1年ほどなので。
2006ー3+1=2004
2004年くらいだったかな。
いろんな大きな作品を見ることができた。
あこがれたけれど、遠い世界で、一部の選ばれし人だけが作ることが叶うの物なんだなあと思った。
自分が作れないことを残念に思うとか、そんなことですらなく。
当時の意識としたら、田舎育ちの女子は、美大に行くことも別世界のことだと思っていたくらいなので、自分はあくまでも、見る側の人でしかなかったし、そういうことに全く疑問の余地すらなかった。
NHKで由水さんという方が、ガラス工芸への招待という番組をされていて、わくわくしながら見た。
それでも、自分は傍観者だった。
でも、時代は進んでいたんでしょう。
私なりのきっかけで、ステンドグラス教室(ロペックス)に通い、ガラス工芸への招待で見たとんぼ玉の実物を、梅田の「ギャラリーまたんと」で見ることとなり。
ステンドグラス教室で、他のガラス工芸をやってみることができることを知るようになり。
趣味で通っていた沖縄で、ガラスショップ(鍵石)に立ち寄ったとき、お店には、まだまだ並んでいるガラスのテクニックが限定的なんだなあと感じ。
まあ、そんなこんなで、会社を辞めて、フュージングで食べていくことにし。
フュージングのためにバーナーをしようと道具をそろえ、安曇野の2泊3日のとんぼ玉の講座を知って参加し。
いつの間にか、とんぼ玉メインのとんぼ玉作家になっていた。
その間には、家で使えるバーナーの開発が行われていたことが、私たちにとって手に届くところにとんぼ玉づくりがやって来た大きな理由で、その開発には増井敏雅先生たちが関わっておられたことを、後になって知った。
いや、そもそもその前の、「ガラス工芸への招待」なんていうNHKの番組が作られることが、いや、その前の北海道立近代美術館が「世界現代ガラス展」なんていう公募ができるほど、ガラス工芸を個人でやる人が増えていたことがあって、その背景には、アメリカで起こったスタジオグラスムーブメントがあった訳で。
そんな時代を生きてきたから、傍観者であったはずの私が、作り手になれたんだ。
会社員になったとき、田舎の事業部に配属されると思っていたしそうして欲しかったし、大阪への配属は不本意だったけれど、だからこそ大丸で公募展を見ることになった訳で。ステンドグラス教室に通える背景もあった訳で。
でも、時代の流れを見たら、田舎で篭っていても、少し遅れて、バーナーに出会ったのかも知れない。
沖縄の「鍵石」で売られていたガラスが器中心で、アクセサリーは、変わり映えのするものはほとんどなかった。
そこへ、初めてフュージングやフュージングにサンドブラストをかけた作品を販売することになった。
器よりもかさばらないこともあって、そして見慣れないテクニックで作られたガラスアクセサリーでもあったので、すごく売れた。
最初の数年は、鍵石の売り上げだけで食べて行けた。
そういうことは普通ないと、陶芸で大阪工芸展で大賞も取られたことのある知人が、驚いていた。
良い時代だったなあと思う。
というか、運よく、「隙間」を見つけたから、会社員をやめたので。
「隙間」の効果も、いずれは終わるもので、それも必然。
国際通りに、おしゃれなTシャツ屋さんができたころには、ガラスだけでなくTシャツや海デザインのタオルなどのグッズと競合するようになって行ったので、それも、普通に時代の流れ。
宣伝しなくても、とんぼ玉教室が満席でクラスを増やした時もあった。
そういう物を探すのに長けた人々が集まってくれた時代もあったんだ。
それが衰退した。
自分で頑張って、自分で頑張り切れなくて自滅した。
そう、他にやりようもあったろう。何か、他のやり方をできた人はいただろう。
その、自分ができたこと、できなかったこと、他の人ならできたかもしれないこと、そういう違いはありながら。
時代の大きな流れの中で、そういうことをしているんだなあと、思うんですよ。
それは、想像すると、ちょっと「ぞくぞく」とします。赤毛のアン風に言うと。
今、コロナ禍で、教室のペースが落ちていて、おおっぴらに、作品展も生徒さん集めもしにくい。
まあ、それとて、時代の流れです。
前にも書いたけど、ナショナリズムが強まっていた頃、キナ臭くて、戦争にでもなったらこんなことはしていられない。いわゆる不要不急の事なので。
生きて行くための、本当に基本的な事を、必死でやっていないといけない可能性だってなくはなかった?
そう思うと、だらだらと、節約生活をしながら、お片付けして、とんぼ玉作品を作れているのは、おそらく幸せなことだと思う。
西はりま天文台に星を見に行けるチャンスが厳しくなったのは残念だけど、いつかは、きっとまた見に行ける。
できることが減ったせいで、時間にゆとりができて、お片付けなんかをやっている訳で。
作品を作る時間も確保できるし、このタイミングで、今までやろうやろうと思いながら手が全く回らなかったネット通販の準備をしようと思っていたり。
それもまた、自分で判断して決めているようでありながら、時代の波のうねりの中にいて、そこに乗っかっているんだなあと思います。
自分がいる場所を、マクロの視点から見てみた時、本当に「ぞくぞく」とします。
不思議な高揚感と、もの悲しさと、どこかで感じた郷愁のような気持と、未来へのぼんやりとした希望が、ないまぜになって心臓も全身も何かにぎゅっと掴まれているような不思議な感覚になるのです。
ぼちぼちとできることをやって、生き延びて。
次にやって来るものを見るのが、なんだかとても楽しみでもある。
人は飽きる物なので、きっと、カルチャースクールでもなく、手作り市でもなく、それは、後ろに置いて行かれて。
きっと何かがやって来る。
一時は、ヴァーチャルな何かのように思われていたけれど、人はどうにも、一定の「リアル」を求めるらしいことは、コロナ禍で、あらためて気づかされることとなり。
きっと、今の感染症という障害を乗り越えて、何らかの、リアルでの出会いの場ができることだろうと思っています。
それは何なんやろう?
10年かかると言った人もいたけど、交差抗体の話や、お薬ワクチンの話もあるので、10年よりは前に、何とかなって欲しいですが。
きっと、10年かかったところで、振り返ればあっという間だろうな。
目の前のできることをやりながら、日々自分のペースで生きながら、次に来るものを、楽しみに待ちたい。
そんなことを思っていた。
あ、その前に、五十肩を治しに整形に行かなくっちゃ。
って、今日、祝日やんか!
ちゃんちゃん。
まだ、上がります腕。いたた。
今日は、何をしようかな。
そう、荷物を車に運び終えて、いよいよKCC加古川を後にするとき、心の中で、お別れの挨拶をした。
「今まで、本当にありがとうございました。」