個人主義だった話

 最近、ほぼ投稿していなくて、それでもだらだらと生きています。

 自分自身は、コロナ禍で行動範囲が狭まり、教室の生徒さんも日々減って行き、自称趣味のガラス作家で本業は無職のこの頃ですが。

 心折れそうになる瞬間もあったものの、もう一人の自分が、世の中で起こる思いがけないことを見ながら、いろいろ考えていたりします。

 

 最近の自分の中で熱いトピックスは、「眞子さん報道のあり方」でしょうか。

 自分でも、自分のタイプって、他者とうまく比較ができていなかったので自覚が薄かったのですが、とても個人主義だったんだなあと思う。

 例えば、大分前に読んだのが、考えることが快感の人と苦痛の人は、脳内物質の分泌の違いで、遺伝的に決まっているという話。

 日本人は、考えるのが快感の人が27%で、苦痛の人が73%。

 フランス人では逆転し、快感の人が6割を超え、苦痛の人が4割を割るんだそうだ。

 アジア人とヨーロッパ人も、ほぼこういう比率になるんだとか。

 なので、日本で不倫報道があると、ものすごく叩く人がいる。

 一方で、フランスだと、それは個人の問題だと割り切る。

 その根底的な理由が、この比率の差だということだ。

 私は、田舎で保守的な土地で育っているし、自分自身もおくてのだったので、不倫は一般論では悪い事だという認識はしている。

 ただ、個別のことは、事情なんて分からないんだから、第三者が四の五の言うことではないんだろうし、個人の問題だと思うし、第三者が立ち入ることでは全然ないと思っている。どっちかって言うと、フランス人的なのかなあと思う。

 なので、今まで、皇室のことにはほとんど関心がなかった。

 ただ、雅子さまが適応障害とか聞くと、逆に宮内庁などの在り方が、今の価値観から言うと柔軟性に欠けるんだろうし、コミュニケーション能力としてはいかがなものかとは思う。

 結局、人は、個人個人のパフォーマンスが最も発揮される状態が一番いいと思うので、それを実現できてない時点で、その程度なんやなあと思っている自分がいた。改めて、自分の気持ちに問いかけたらね。

 

 眞子さんに関する報道も、そんなスタンスで見ていた。

 結婚は個人の問題で、相手が完璧である必要はない。

 生きていれば、もめごとくらい起こるもので、関係者まで探した時に、そういう物を一つも持っていない人でなかったら、結婚する権利や就職する権利がないという考え方は、令和の時代にはすでに古いと思う。

 が、昭和までは違った。

 子供の頃、祖母に言われ続けたこと。

 決して犯罪を犯したり、人に後ろ指をさされるようなことはするな。自分が困るのはもちろん、親戚中に迷惑をかけるし、従兄弟姉妹たちの結婚の妨げになってしまうから、自分だけのことでは済まない。

 といったニュアンスのことを、バリバリの播州弁で諭されて育ったものだった。

 が、昭和の価値観では、本人に何の非がなくても、本当に親ガチャよろしく、根底的にいろんなチャンスを断たれてしまう。

 きっと、そういうのは良くないんだなと思うようになっていた。

 

 例えば小室圭さんがそうだ。

 本人がどんな人で、どんな長所短所を持っているとか、一般的な受けがどうとか、世渡りが上手下手とか、そういうのは様々あると思うんだけど、その程度のことだと思う。

 進学するお金に困らない人なら、何ら問題なかったことが、問題になってしまう。

 私は親になったことがないので、そういうのは分からないんだけど、小室佳代さんが何が何でも進学のためのお金を工面しようとしたその行動力は、見上げたもんだなあと思う。個人的に馬が合うかどうかは別問題として。

 自分は自分のためだけに、そんなにも動けないヘタレやからなあって。

 チャンスが与えられる世界であるということは、誰にとっても希望となり得る。

 それなのに、恵まれた環境にはなかった人の努力を潰しにかかる。

 なんだかねえ。

 

 ヤフコメの誹謗中傷コメント、日ごろは近づかないようにしているんだけど、ちょっと風向きが変わってから見に行ってみた。

 個人的に思うことは、ここからは第三者は立ち入ってはいけないところという線引きができていない人が、誹謗中傷コメントを書いているんだなあということ。

 それ以外の意見が見られないのは、そういう人たちが集まる場所に、線引きができている人々は、一定の不快感があって近づかないんだろうなあということ。

 それが、あたかも大多数の意見であるかのように見えてしまうことの怖さ。

 それはきっちり評価されるべきだったと思う。

 秋篠宮が、誰からも祝福されるべきだと考えたのは、申し訳ないけど、少々子供だと思った。

 どんな物事に対しても、必ず反対の人は一定数はいる。

 秋篠宮が結婚した時代、昭和の空気を引きずった平成の初期では、人々は、皇室に対してもう少し敬意と節度を持っていたからか、もしくは匿名で好きかって言える場所がなかったからなのか、ほぼ祝福ムードだった。

 でも、きっと、あの時だってすべての人が賛成だった訳ではないんだろうと思う。

 ただ、表立っては出て来ていなかった。

 それで良かったと思う。

 眞子さんの結婚に関しても、昭和の連帯責任の時代の発想でない時代においては、小室圭さん本人は、「シロ」なはずだし。

 その上で、一定の反対があったとしても、過半数が、賛成もしくは容認であれば、ふつうに祝福して、人生の門出を祝って送り出してあげても良かったんじゃないかなあと思える。

 なんで、やましいことをしているかのように追い立てられなくてはいけなかったんだろう?

 特に、私が紀子さんと同い年だからか、目線は親目線に近い気がする。

 どんなに条件が揃った人と結婚したところで、うまく行くことも行かないこともある。どんな人生を選択しても、不安がないことなんてない。

 もちろん、小室圭さんと結婚となっても、他の誰かであっても、一生一人という選択でも、きっと、一定の心配が親にはあるはずだ。

 だからって、反対して潰してしまうのは愚かなことで、そんなことを言いだしたら、正解はなく、全ての話を潰すことになるんじゃないのか?

 そういう冷静な目線に立ったら、秋篠宮が、全ての人に祝福されようとしたことは、不可能なことを目指してしまったことになる。

 限りなく昭和の発想だ。

 昭和の時代は、まだ、一定の歯止めがあったんだよ。

 もっと、社会全体で、良識のある判断をした上で、眞子さんを守ってあげられなかったのかなあと思う。

 

 誰にとっても、もっとも良いパフォーマンスで生きて行けることがベストだと思う。

 眞子さんも、彼女に与えられる分の幸せを手に入れて、たった一回の人生を生きて行って欲しいと思う。

 ちゃんと、門出を応援している人はいるんだよ。

 でも、線引きしている人は、ドライだから、あんまり前のめりにはならないけどね。

 

 それにしても、ヤフコメって、ここからは第三者が踏み込んではいけないところっていう線引きができない人たちの声ばかりが強調して見えてしまうところなんだなあと思った。

 確かに見ていたら、おなかの中にモヤモヤっと、得も言われぬ不快感がこみあげて来る。

 そういうのが嫌だなあと思う自分って、ヘタレなんでしょうかねえ。

 そこを跳ね除けて行く強さが、生きて行くには必要なんだろうか?

 フィギュアスケートのコメントやインタビューでも、フィギュア自体ホンマは興味ないんやろ?演技のところは見てないんやろ?だって、内容分かってないもんな、みたいな人がイヂワルな質問をするシチュエーションは、たまにあって引く。

 ほんと、イヂワルな人はいる。

 自分自身も、自分が欲しくてしょうがない物を手に入れられないのに、誰かが手にしているところを目の当たりにすると、やっかんで悪口を言うことはもちろんある。人間だから。

 でもまあ、イヂワルな精神性は、自分の健全な成長を妨げるような気がする。

 本当は羨ましいんだなあとか、その時に自分の本当の気持ちに気付ける方が、負の感情から抜け出す助けにはなる気がする。

 負の感情って、実は自分自身をむしばむ気がする。

 悪口を言わない事っていうのは、実は、言われる誰かのためって側面はありつつ、本当には自分のためなんだろうなあと。

 眞子さんの一連の誹謗中傷を見ていて、改めて思ったのでした。

 

 さて。

 今日も一日を始めるか。

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