AIが止まらない!

 ガラスじゃないブログ、始めたのですが。

 このホームページの表紙のところに、投降したことがアップされないように、変更してもらおうっと。

 なぜなら、ガラスじゃないブログは、「そんなうざい話、読みたくないってば!」くらいに、めんどくさい話を、うだうだっと書いて、公開はしているけど、めんどくさい話が好きで見に来たい人だけが見られる、そうでない人が間違って見てしまわないために、分けてもらったので。(^^;

 

 ずっとずっと前。

 私、自分がこの年で、こんなに落ち着きのない人のままいるとは思わなかった。

 この頃、自分の中のある部分が、変わったと思う。

 ブログのあちこちに書いてますけど。

 生き辛さを感じながら生きている人でした。

 でも、ここ3年くらいですが。

 たまたま、本屋で見つけて平積みにしてあったから、買って読んでいた本に、書かれていたことを読んで、自分というものに気付いた。

 今までさんざん答えを探していたけど、意外と、私の困りごとは、ここに起因してたのかもしれないなあと、腑に落ちた。

 まあ、親の介護を通じて、親の性格を改めて引きで見る機会があったこともだし。

 父が亡くなって、葬儀の後の集まりなんかで、意外にも、良く知っているつもりだった伯父の知らなかった一面をほかの人から聞いて、そこ、私と似ているなんて、思いがけない発見もあって。

 自分の困りごとの理由が腑に落ちると、けっこう、困ることでもなかったのかもしれないと思えた。

 生き辛さを感じていた一方で、同じ根っこの部分が、自分自身の幸せもいっぱい生み出していることを、納得した。

 そして、堂々、落ち着かない私がいる。

 

 頭の中では、いろんな考え事が駆け巡っている。

 そのうちの一つ、頭の中で駆け巡っているマイブームは、「AI=人工知能」ってやつです。

 今、第3次人工知能ブームなんだそうです。

 多分、「ディープラーニング」で、できることが広がったことが、新たなブームのきっかけなんだろうなあと思う。

 人工知能が人間を超えるとか言われていますしね。

 シンギュラリティっていうんだそうです。

 

 私、8年あまり、会社員をしてまして。

 その最初に配属されたのが、「知識システム課」という部署でした。

 思えば、当時は、第2次人工知能ブームだったんですね。

 流行っている人工知能とかいうもので、何か、仕事ネタを探そうっていうのが、その新たにできた部署でした。

 できたばっかりのところに、大卒すぐに配属され。

 とりあえず、人工知能を勉強しようってことで、市販の本を読んでお勉強。

 仕事がなかった。

 で、どっち向いて何をすれば良いのん?

 みたいな方向性も示されず、いきなり新入社員の時点から、迷走する部署の中で、会社員として役に立っていない状況のまま。

 部署の仕事は変わって行き。

 8年後、「使い物にならなかった私」という挫折感を抱えたまま、ガラスで食べていこうと決めて、会社を辞めたのでした。

 

 人工知能の技術の深いところまでは分かりません。

 ただ、概論は、読んだ。

 会社のお給料をもらいながら。

 それが、今の人工知能ブームを前にして、どう思う?って聞かれたら、概論だけなら、的確に意見が言える自分がいると思う。

 

 人工知能が得意なジャンルはある。

 でも、人工知能には、創造性はない。

 あるのは、模倣だけだ。

 人間だって、創造といいつつ、模倣をするじゃないか?って、思いますよね。

 模倣もしています。

 既存のものを組み合わせるという工程の創造もしています。

 が、人工知能にできない創造って何なんなん?って聞かれると。

 「美意識」という物差しで、物事を決められないこと、これに尽きると思います。

 ちょっと話がそれるようですが。

 かの、羽生善治さんが、「AIは、その手が良い手かどうかというのは分かって打ってはいない」とおっしゃった。

 鋭いと思う。

 AIがさす手を見て、羽生さんはその世界のエキスパートだからこそ、そのことが分かったんだと思う。AIに関する概論を知っておられた訳ではなかったと思うけれど。

 どゆこと?

 例えば。

 トンボ玉を作る時、偶然に良いのができた気がして、それを発展させてアレンジして、新しいデザインを作ったとする。

 ああ良いのができた!

 これって、あなた、どうして良いのだと思った?

 理由、答えられますか?

 即答、難しいと思うんです。

 自分の気持ちの奥深いところを探しに行かないといけない。

 相当、探し回って、これだったと思ったけど、やっぱり違った。

 じゃ、それ、良くないんですか?って聞かれると。

 いやいや、良いのは間違いなんだけど、何でって言われてもねえ・・・・・・

 この、良きことの確信こそが、人間の「美意識」なんです。

 多分、まじめに探しに行くと、いつかは、理由を理路整然と述べられる日が来るかも知れない。

 ガラスが美しいと思うのは、人が、生きる上で重要な「水」を見つけるための、透明なものを良きものと思う感覚からきているのであろう。

 この頃、ふと、そう思いました。

 でも、物事ってさ。

 こういうシンプルな理由があるものばっかりじゃないでしょ。

 人は、その遺伝子の中にも、お母さんのおなかの中で感じたことも、赤ちゃんの頃から学習したものも、それはそれは、複雑にいろんな要素が入り混じって、「良きもの」を決めている。

 それでも、物質の上に乗っている機能だから、解明できれば、再現はできるんじゃないのか?

 できると思います。

 が、一人の人の中の、一つの「良きもの」を判断する理由を探すことですら、こんなに複雑なんです。

 この良きものの基準が、複数あって、その良きものを手掛かりに生きていく中で、また違う局面に出会って、その経験もまた新たな良きものの基準にしていく。

 羽生さんの知る「良き手」というのは、頭の中で複雑な働きでいろんな理由や直感が組み合わさって、良いと確信が持てている手なんだと思うけれど。じゃ、この良き手とこっちの良き手は、この局面では、どっちがより良き手?と聞かれたとき、羽生さんは、いろんな要素を組み合わせて、どっちなのか、答えを出せると思う。

 きっと、AIには、それはできない。

 何故か?

 羽生さんの頭の中のデータを、AIが持っていないから。

 AIに、羽生さんの頭の中のデータを、今の技術では、移すことができないから。

 なぜなら、人間が、まだ、人間の脳を一部しか理解できていないから。

 AIが持っているデータは、将棋の手と勝ちに行けるパターンの、「差し手」のデータだけのはずだから。

 ところが、きっと、羽生さんは、良き手を決めるのに、「差し手」のパターンデータ以外の、データも駆使しているはずだから。

 直感的に良きものというものを判断する、その人間の仕組みは、まだ解明されていない。

 それを「美意識」と呼んでいて、今、美意識を鍛えるブームも来ているらしい。

 美意識が、どういうものであると記述できてしまうほど単純なら、みんなやすやすとかどうかは知らないけど、塾みたいなところで、美意識を鍛えるぞ~!お~!みたいに、トレーニングで鍛えられるのかも知れない。

 ただ、「美意識」というものが、あることは気づいていて、何らかの美意識を持っていても、それを的確に説明したり再現したりできない。

 その美意識を含め、人間が、良いと思う、悪いと思う、誰かの気持ちが類推できる、共通して「あるある」と思える事柄がいっぱいある、そういう、判断の基準にしている、実は多くのことの一部も、再現できていない。

 AIは、良きものの、悪しきものも、実は決められない。

 子供が、教えられた通りに、それはルール違反だからよくないことと答える、AIは、まだ、そういう判断しかできない。

 こんなものが、人間を超えるのか?

 絶対ないと思う。

 

ちなみに。

今のAIが行っている良きものを決めるやり方。

人間が良いと思うものを、いっぱい集めて置いて、それと似ているか比較して、似ていると良い物と判断をする。

で、似ているというのは、どういう条件をどのくらい満たすと似ているとするのかとか、そのルールも決めることになると思うんですけど。

AIに絵を描かせるやり方とか、作曲をさせるやり方とか、見てみると、ほぼ、こういう感じに見えます。 これって、ホンマに、これは良いもんだと教えられたからいいもんだ!っていう、上っ面の判断だと思う。

人間の美意識によって、判断をする創造性とは、全く違うものだと思います。

 

ただ。

 要素ごとなら、人間をもはや超えていると思う。

 例えば、クローバーの葉っぱが、が何万個も写っている画像の中から、クローバー探しをしたら、すでに、人間より速くて正確だろうと思う。

 探偵ナイトスクープで出ていた、よつ葉の声が聞こえる少女も、絶対にAIには敵わないと思う。

 データ化しやすくてルール化しやすい物は、正確で速い。

 それをシンギュラリティというのか?

 だったらもう来てますけど?

 

 AIの反乱っていうけどさ。

 今、すごく反乱に合っています、私。

 この文章を入力しつつ、ウィンドウズ10の予測入力機能が、めっちゃ文章入力を妨害するんです。

 こないだ、その機能を切ったと思ったのに、切るのに失敗したらしく。

 そう。

 それを反乱というなら、めっちゃ反乱に合ってます。

 まさに、今。

 

 それを言うなら。

 反乱は、AIだけじゃないですよ。

 人間にもいるでしょ。

 「決まりですから」って、どうしても、譲ってくれない人。

 「決まり」は、本来、物事をうまく進めるためにあるもの。

 適用を間違えると、むしろ、物事がうまく進むのを阻害してしまいかねない。

 その局面でも、決まりだからというその行為。

 それは、限りなく、条件入力に失敗したAIの反乱に、似ている。

 AIの反乱について、熱心にNHKで語っている人に言いたい。

 AIの反乱の心配をするなら、人間の四角四面の反応による反乱は、どうなんでしょう?

 間違いなく、反乱はある。

 レベルによる。

 ウィンドウズ10は、すでに、私に対して、相当反乱を起こしている。

 言えるのはこれだけ。

 解除する機能を適切に備えておくこと。

 実は、それは、人間だってそうだと思う。

 何でもかんでも右へ倣えで「自粛」、何でもかんでも、右へ倣えで「プライバシーがあるのでお話しできない」、この一律にルールを適用しようとする、行き過ぎた最近の風潮。

 そこには、人間の判断は入っておらず、単純なルールの適用しかない。

 そんなん、今のAIにだってできますやん!

 そういう、一律の適用で、物事がゆがんでも、自分には決める権限がございませんと言い切る。

 それは、人間の脳みそが起こしている、AIの反乱に限りなく近い状況だと、この頃、思うんです。

 AIの反乱を心配する前に、日本の教育が、行き過ぎた協調性を教え込みすぎたことを、一回反省してみたらどうなんだろう?

 と、つけっぱなしになったまま始まったNHKの番組を、夜中に見ながら、思ったのだった。

 

 あの、挫折感の大元にある、AI技術に関する本読みが、自分がものを考えることの役に立つ日が、再び来ようとは、あの時は思わなかった。

 人生って、わからない。(^^;

 

 そんなうざい話に、わくわくする、落ち着かない私は、この先もきっと、こんな人だろうなあ。

 

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