ドイツで万年筆を使うように

 先日放送していた、NHKの「世界は欲しい物にあふれている」の文房具の回で、ドイツの万年筆文化の話をしていた。

 万年筆で書いたものも、1回は消せるんだそうですが、1回消したカ所を、2回目に消せないんだそうです。

 その解釈が良くて。

 どんな意見でも、自分の意見として書いたものは、残るべきだと。

 はっきりしてるわ。

 良いんやわ。

 

 ただ、その後、2人ほどとそういうお話をした時に、ドイツ人のそれゆえの一癖もあるらしく、内容忘れてもたけど。

 まあ、一長一短なんやなあと思ったんです。

 でも。

 自分の意見は残るべきとしつつも、意見を変えてはいけないってこととイコールというわけではないんだろうと。

 証拠を残しておいて良いということは、ちゃんとした理由があれば変えていいというのとセットでないと、身動きできなくなってしまうでしょ。

 変えてはいけないでは、絶対間違えないし、そんな怖いことを残しては置けないことになる。

 とまあ、そんなこんなで。

 こんな記事を見つけました。水島宏明さん(上智大学教授・元日本テレビ「NNNドキュメント」ディレクター)という方が書かれたもの。

  『Nスペ』より『モーニングショー』が信頼できる?岡田晴恵教授と玉川徹が国の専門家会議に注文した件

 文章中、ところどころ、太字で大文字なのが、ちょっと威圧感を感じてしまう私でしたが。(笑)

 余談ですが、私も、時々赤い字とか使っているけど、あまり、太字とか大きい文字とか、意識して使わないんです。文面の印象も、絵のようなもので、威圧感がちょっと趣味ではないため。そうそう、岩田先生は、強調する部分が青い文字なのは気づかれたでしょうか?自分で書かれてるんかなあ。こういうところにも、その人の感性は表れる気がします。

 水島さんの記事の最後のところ、引用します。

『モーニングショー』のやりとりを長々と引用したのは、『NHKスペシャル』との違いを理解してもらいたかったからだ。 

 もしも『NHKスペシャル』に岡田晴恵教授と玉川徹が出演して、専門家会議野メンバーと直接やりとりをすることができれば、『N スペ』ももっとわかりやすい放送になっていたはずだ。

 権威のある人の説明でも、わからないものはわからない、納得できないものは疑問を投げかける。

 絶対的な権威に対して、懐疑的な、批判的な姿勢で臨む。

 よく考えれば報道としては当たり前のことだ。

 だが、現在、新型コロナをめぐる報道で視聴者として見たときに「信頼できる」「実態をきちんと解説している」と思うのは『モーニングショー』だ。

 その理由は、専門家の話を伝えるにあたって重要な「姿勢」をきちんと持ち続けているからだと思う。

 同じ意見の人がいてうれしいです。

 人は、自分がすることをする人を許せても、自分がしないことをする人は許せないんだそうです。

 多数派の意見や、権威のある人の言葉に、それよりも肩書がない人が、反対意見を言うことを、多くの日本人は、カルチャーとしてしないので、凄い嫌な奴ってことになるんやろうな、玉川さん。

 で、ここまで言うのもどうかと思うんですが、被害妄想的ではあるけど。

 自分よりも権威のある人にたてつかないことというのは、行動様式の一つであるにすぎないのに、多数派であることで、それが絶対的な正義だと思い込んでいるフシがある人が、結構いる。

 なので、ここは、引っ込めてはいけないとか、議論あるところが健全な意見が交わされる場とか、ちゃんと考えたうえで意見を言っている人を、「おかしな人」とか「空気が読めない人」とか「壊れている人」と、本気で思ってはるんやろうなあと思う。

 そういう意味では、空気が読めない訳ではないのに、考えてのことなのか、習い性なのか、ついやらかす人は、相当「無謀」と言えると思う。

 それは、玉川さんであったり、岩田先生であったり、もっともっとちんまいけど、私であったりする。

 岡田晴恵先生は、そうではなかった。すごく抑制のきいた話し方を、最初はされていたんですよ。

 確か、「ダイヤモンドプリンセス号」での隔離が始まってから3日目くらいだったと思う。劣悪な環境であることが分かって。岩田先生のツイッターでの告発の前だったと思う。

 その時に、岡田晴恵先生のスイッチが入った。

 はっきりと、自分の考えを仰るようになった。

 モーニングショーだけだと、私も思っていた。全部の流れを、できるだけ見せようとしている番組は。

 玉川さんは、日ごろから、自分のポジションがどんな物かは分かってはると思うし、それって、「ヒール(悪役)」を演じていると肩を持つつもりで書いていた人もいたけど、そんなことはなくて、ここは意見を言うべきところで、引っ込めていては自分の存在意味がないと思ってはるんだと思う。別に、それって、悪役ちゃうやん。

 私の見方からすると、正義の味方やけどな。

 

 どうしても引けないんだと思う。

 言うべきことを言わないと。

 悲しかった。岡江さんが、リスクあるのに発症後4日も様子見するのが、標準的な流れになってしまっている、日本の現状が。

 島津製作所が、もう発売したのかな。検体を試薬に混ぜたら、そのままでRNAの培養(?)を始められるという試薬を開発した。

 PCR検査と違うのは、培養(?)を機械でするところは一緒だけど、その前処理が違う。前処理の手間が要らなくなる分、検査時間を短縮できるという物。PCR検査の判定結果とは、100%一致しているんだそうだ。

 人間がする前処理が省かれたら、本当に負担が減るでしょ。

 その前に、PCRセンターを立ち上げることで、まとめて検体採取できるので、1回ごとに防護服の脱着が要らなくなり、被験者ごとに、手袋の交換だけで良い訳なので、そこでももっと負担が減らせる。

 今までのシステムのまま、もっと働け、死ぬまで働けっていうんじゃない。

 非常時だからこそ、できることを迅速にするように、非常時だからこそ、臨機応変にできることをやるべきだと、ずっと玉川さんは言っていて。

 検査が速くできたら、できることは多い。

 アビガンの投与も。

 ちょっとだけ思っていたことがある。

 玉川さんが先回りしていうことで、プライドが傷つく人がいて、返って対策が進まないなんてことになると厄介だなあって。

 だったら、もっとトーンを下げた方が良いの?って。

 でも違ったな。

 自宅療養で亡くなる人が出てきた。

 東京都の感染者数は減っている気がするけど、死亡者数が、きれいな指数関数になって増えている。感染者数は、民間で検査しているものは含まれないんだそうで、本当に宛にならない。

 これは、いよいよ、掴めなくなってきているということで。

 本当に、土壇場になって、やっと動き出す。

 

 そういう成り行きを、モーニングショーがなかったら、私たちは、知ることができなかったかもしれない。

 玉川さんと岡田先生が果たしている役割は大きい。

 羽鳥さんは、バランスの人ポジションで。でも、見ていると思うけど、この人も流されない人だと思う。自分に求められているのが、公平なジャッジだと思っているので、その難しいところを貫いている。コロナの前に、とある出演者が、意見の応酬みたいなことになったとき「もう呼ばれないですね」というと「いえ、呼びますよ。モーニングショーですから。」って、返していた。サイコーだと思う。ホンマに呼ぶとこも。

 言い続けないと、日本のカルチャーでは、声がかき消されてしまう。

 すごく嫌なのは、声の大きい人の意見が通る。

 声が大きい人は、往々にして、利権にまみれた亡者だったりする。

 玉川さんの発言は、私欲はないと思う。

 自分が幸せな世界を目指すことは、みんなが幸せな世界を目指すこと。

 だって、合理性のない効率の悪い社会で、人々が不幸だと、そこで生きて行く自分は、きっと不幸だと思うから。

 だから、言い続けないといけないんだろうと思う。

 結構、うざいけどね。一般的には。(笑)

 

 孔子の言葉で、「・・、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、・・」っていうのがあるけど。

 惑ってますけどね。孔子様が天命を知った年も過ぎてますけどね。

 この頃は思います。

 私が気付いた天命っていうのは、「自分でいること」なんじゃないかなって。

 神様はいろんな人を作った。それはリスク分散だ。

 ドイツ人のカルチャーにも、一長一短ある。日本人のカルチャーにも、一長一短ある。

 でも、日本人が「協調性」を重視していて、それが多数派だとしたら、多数であるにはきっと理由があって、それがプラスに働く局面が確実にあるということで、でも、それだけではダメだから、少数派も作って置いた。

 それは、神様が意思を持っていたというよりも、自然の摂理の中で、そうなっていったんだとしたら。

 多数派にも、大事な役割があり、少数派にも、大事な役割があり。

 片方に振れ過ぎるのを、逆に戻すために、きっと少数派は要るんだろうなあと思うようになった。

 多数派を肯定できた時に、少数派の自分も肯定できた気がする。

 ヒールになっている訳じゃない。

 自分は、自分でいて、世界のありようと上手く擦り合わせて、良い形でアダプトするべきだと、思うようになりました。

 

 何だったか忘れたけど、ドイツ人のやり方では、こういう部分もあるんだよっていう話を聞くと、ドイツ式が多数派になった社会も、意外と私には生きにくいなあと思った。やっぱり、日本人やなあって。なんやったっけ。また、機会があたら、聞いておこう。

 ただ、今は、玉川さんが頼りです。

 岡田先生も、スイッチが入らなければ、賢く無難に生きて行く選択肢もあったはずなのに。

 その「誰か」になるのは、タイミングなので、「あれ?自分?」みたいなのが回って来たのが、もしかしたら他の人だったかも知れない。

 それでも、頑張ってはると思う。

 やわな神経の人では、難しい。

 きっと、ホンマに、自分が流れの中ですべきことに、腹を括って臨まれているんだろうなあと思うこの頃です。

 だって、好き好んで、嫌われるかもしれないリスクを取りたくはないでしょ、人って。

 

 あ、良かったら、読んでみてくださいね。水島さんのブログ。

 それに、落ち着いたら、モーニングショーと、世の中の動きを連動して、ぜひ、見直してみて欲しい。

 ドイツの万年筆で書かれた文字のように。

 なんか、無理無理、タイトルと合わせた感じの終わり方で、すみません。

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