リスクコミュニケーションって・・・

 今朝のモーニングショーでの山口真由さんの言葉に、「そうそうそう!」って、うなずいていた。

 非常時に誰について行くかの話をした時に、彼女の顔が頭に浮かんだと書いたのですが。

 玉川さんと、良純さんだったかの、激しい応酬に挟まれて、おろおろしているところも、好きなんですよね。

 発せられる言葉が、賢いんだけど、感情のひだが細かいというか。

 

 さて、一連のコロナに関して、凄く感じるのが、「日本人は、口下手」です。

 もちろん、背景に、危機感があるからこそ、危機感を口にできる訳で、そこまでないんやろなって人には、もちろん無理な訳で。

 特に人の前で話す人は、「伝えようとする気持ち」っていうのが、必要だと思います。

 今回、凄く思うのは、医者って、何にも言わん人種やなあってことですね。

 私、偉そう。

 偉そうに書きます。

 私、両親が入院したり介護が必要になったあの時から、急に、病院にかかわる場数が増えていきます。

 そりゃもう、「先生」という人に、一年で、新規に何人であった?っていう年がありまして。

 その時に、凄く思ったのが、「人間やもんな」ってことです。

 

 その昔、大学の教養課程の法学で、聞いたのが、「高度注意義務」という言葉です。

 ほら、三流大学の理系のための法学なんで、かなりかいつまんだ話だけで、結構、日常に役立つレベルの話が多く、それでも、ほとんど覚えてないって何なんやろ。(笑)

 わずかに覚えているのが、「高度注意義務」というもの。

 まあわかりやすく言うと、普通の生活では、「注意義務」っていう物があって、誰かの落ち度で誰かが被害を被ったとき、その落ち度は、ちゃんと一般的な基準で注意するところを注意していたけれど、一般的な感覚から考えて「想定外」な事だったとしたら、落ち度も、仕方なかったので有罪にはできないって話になるんですって、法律上。

 ところが、医者には、「高度注意義務」っていう物がある。

 予測不能でしたと主張するには、相当な注意を払われないといけないことが決められている。

 大変。

 理系の人間が、医療従事者を選ぶ率が高いのに、私がそっちに行かなかったのは、怖かったからです、人の命にかかわることが。

 ホンマに大変。

 まあ、そんなこともあってか。

 間違ってはいけないっていう意識が強いのは、必然的な結果かもしれない。

 ほんとに、「不言実行」で、目の前の仕事に向かおうとする空気は感じられる。

 でもま、一般人ってさ、けっこう感覚の生き物多いから、先生の人間性を鋭く見抜いている人は多いと思う。

 親のカテーテル検査のあいだ、待機していたデイルームで、よその患者さん家族の話を聞いていて、そう思った。

 一方で、あたかも神のように、依存的な気持ちで、大きすぎる期待をする傾向があるからな。

 もっと、「人間やで~!」では、イカンのかしらん。

 患者家族が、不安になるから、スーパーマンを演じないといけないんだろうか?

 私はむしろ、そういう「人間」に、運命を託していることに、感謝と感動みたいなものを感じるけどな。

 そこは、患者サイドのキャラクター次第ということか。

 コロナに関しては、医療現場の現状を、一般人も、もうちょっと共有できた方が、自粛していても納得する人がもっと多くなるんじゃないのかなあと思ってしまった。

 

 それと、検査です。

 検査を絞るということの理論が、いろいろ錯綜している。

 前にも書いたけど。書きたい放題やな。

 最初に検査を絞って重傷者だけをケアするという考え方ができた時点では、「急変」ということの認識が広がっていなかった。

 医療サイドからしたら、重症化する人の率が、比較的低そうだということから、急変がなければ重症化した人のケアで救えるという認識だったんだろうなと思う。

 感染が広がるけど?っていうことに関しては。

 感染症を、恐れすぎていては、現実世界には、色んな感染症があるので、そこまで神経質になる必要はなく、自然に広がって行き、それでも死なないようにケアできれば良しっていう考え方だったんだろうと思う。

 イタリアや、ニューヨークでの、感染爆発が起こったのは、その方針ができた後だったはず。

 東京では、感染爆発という状態に、一気になった訳ではなかったけど、じわじわ増え続けた。そして、急変するケースを考えると、「ケアが必要な重傷者」と「軽症者で、ケアが必要のない人」を、分けられなくなってしまった。

 玉川さんは、「感染」が広がることを抑えるために、検査を増やせと主張していた。

 医療サイドは、感染に関しては、本音では容認としていて、「治療」のための検査にとどめたかった。

 まあ、そういう認識の違いが初めからあったんやろうなって思う。

 「急変」ということが、分かってきたことで、軽症者から見つけておかないと、怖いのではという認識が広がり始めた。

 どっかで、誰かが、そこをちゃんと説明して、方向転換するしかないと思うんですが。

 「空気」が、じわっとなんか、やっぱり検査をね、ほら時間がたってできるようにさ、ちょっとずつ、みたいに「のらりくらり」と、誰が決めたとか何でそうしたとか、無いままに、動かそうとしている気がする。

 

 検査に関しては、とても重要なことがあると思うんです。

 経済がという人がいるけど、経済を含んだ大きな意味での社会活動が、凄く制限されていて。

 それを、(もちろん)無理なく、出来るだけ動かしたいという気持ちは、誰しもある。

 「治療」だけではなく、人々の「行動」を決めるために、検査は必要だと思うのです。

 医者も人間やなあと思うのはそこで。

 スーパーマンじゃないから、目の前の急ぎの仕事で手一杯だということなんです。

 それで、目の前の仕事、治療という基準で見た考えが、自然と優先される。

 「目の前の治療のために」とは、別に考えないといけない「社会活動のために」必要な「検査」を、どう考えるかまでは、完全に守備範囲外なんやろうなって、思います。

 越智小枝さんという方が書かれていた、「新型コロナの科学」にも、もちろん社会生活のための視点には触れられていなくて、その中で、検査検査というのは暴力みたいに、書かれていて。

 暴力じゃないけどなって、思ったものでした。

 それでも、聞いている方は、カシコの医者の言うことだからって、受け取ることになるけど。

 いやいや、それは飽くまで「治療」に限定された考え方やと考えた方が良くない?っていう風には、なかなか考えられない。いや、考えても、上手く反論する方法を思いつかない。

 

 そんなこんな、意識のギャップに気付くためには、言葉にした方が良いのかなって思うんですが。

 日本人って、上手に口にできないんかなあと、思うのです。

 何となく、「言わんでも分かれ」「言うてもどうせ分からんやろ」「しかも、言うのって手間かかる」「要らん事いうたら、また足元すくわれかねん」みたいな、いろんな気持ちがないまぜになっているのか、本当に、情報発信が少ないと思います。

 吉村知事は、結構、頑張って言うようにしてはるんやろうなと思います。

 多分、「しなくてはいけない」意識ではなくて、「僕なら、知りたいと思う」「理解できた方が、上手く回る」みたいな、凄く人間として素直な感覚、自分の内なる声に、ちゃんと従ってはるんやろうなっていう気がします。

 そういう資質も、持ち合わせる物なのかもですが。人と人をつなぐこと。

 

 未知のものに向かう時、見込みは、変わって行くものだと思う。

 私の個人的な意見では、「今分かっていることは、こういうことで、見込みはこうです」って言う。何か違う事実が発生したら、「こういう理由でここの見込みがこう変わりました」と、説明する。その方が、すっきりするけどなあ。

 でも、日本人のカルチャーには、「朝令暮改」は、本当に悪だとされているところがあって。

 「はっきり決まったもの以外、安易に口にしてはいけない」カルチャーがある。

 で、裏で、「根回し」といって、非公式に、ぽろぽろとこぼす。

 その方が快適という人が多数なら、そういうカルチャーなのは、あきらめるしかないんかなあ。

 いやいや。

 非常時、未知のもの、それが好きな人はいないと思うけど。

 そんなとき、「マニュアルよこせ!」いうとったら、滅びの瞬間に、大昔の基準で作り始めたマニュアルができると思う。

 そこは、譲れないな。

 なぜ?って。

 痛い目見るのが嫌やからです。

 どこか、日本人が、予定しやすい生き方をしてきた結果なんだと思うけど。

 「この人は信用できる人」「信用できる人が言ったことは正しい」「正しいことは変わらない」的な、単純な構造を期待しているんだろうと思う。

 それは、ある意味、思考停止やし、誰かに考えることを丸投げしていることやし、自分で決めるのを放棄した依存的な態度だと思う。

 そのカルチャーが変わらない限り、都度都度の情報なんて言うのは、出しにくい物なんだろうと思う。

 で、出さなかったら、受ける側は、何にも分からない。

 正しくて変わらない内容を期待してしまったがために、都度都度の情報すら分からず、何にも分からないことになる。

 何か、今の日本は、そんな感じだと思う。

 

 自分自身が、そうできるのかというと、難しい。

 説明するのには、手間がかかるから。

 でも、伝えることで、スムーズに回ることがあって、結果的に自分の負担を減らすことならば、時間をかける価値ってあるのになあ。

 いや、分かってるけどなかなか、実行に移せてない、そこまで手が回らない。

 そうなるのかも知れないけど。

 

 書いていて思った。

 企業の規模が大きいほど、分担出来て、専業でできる人が効果的で効率良い仕事ができるっていう側面があるっていうあの話。

 いろんなジャンルで、「広報」みたいに、人と人をつなぐ人が、もっと必要なのかもしれない。

 何を伝えるのか、何が知りたいのか?

 AIで統計を出したら、アンケートの結果は出ると思う。

 でも人には、潜在的で、意識に上らない欲求があって、それを意識化できる人ばっかりじゃないし、言語化が得意な人ばっかりじゃないから。

 やっぱり、コミュニケーションで、人と人をつなぐ人が、もっと必要なのかな。

 コロナ禍で、コロナと全然違うことを考えたりした。

 

 今回は、このへんで。

 洗濯物、干そうっと。

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