自粛解除をできる方法

 とてもダイレクトなタイトルにしてみた。

 先日ブログで書いた、九州大学名誉教授の小田垣孝さんの考察を、ちゃんと見に行きました。

 新型コロナウイルスの蔓延に関する一考察

 最後の部分を引用します。

4 まとめ
まずモデルの妥当性の検証の一つとして、隔離率 𝑝𝑝 と感染者が発症する割合、発症率との関係を見ておく。このパラメータ 𝑝𝑝 は、発症率×検査率で与えられる。一人の人が発症した時、現在の日本の方針では 4 日間待ってからの検査になるから、1 日あたりの検査率は 0.25 程度と考えることができる。前節で得た 𝑝𝑝 = 0.096 を用いると、発症率はおよそ 38%となる。ただし、PCR 検査をすぐ受けた人、長く待たされた人もあり、さらにクラスター対策による検査で陽性と判定されて隔離された人もいるので、有効検査率の推定は難しい。直感的には有効検査率は 2~3倍程度大きく、従って発症率はおよそ 0.1~0.2 と見ている。現在、発症率として色々な数値が示唆されているが、この値に近い報告もある。
2 月から 4 月にかけての政府の方針は、公式的には医療崩壊を防ぐために PCR 検査数を極力減らすというものであった。これは、結果として (7) 式の 𝑝𝑝(隔離率) を小さくし、λ(減少率) が大きくなって、市中の感染者を増加させたことになったと言わざるを得ない。
感染係数を小さくするために行われている人と人との接触頻度を下げる対策は、市民に極めて大きな影響を与え、さらに経済を少なからず減退させており、ひとえに市民生活と経済を犠牲にするものである。一方、隔離率を上げるために、効率的な検査体制と隔離の仕組みを構築することは政府の責任である。政府が、「接触 8 割減実現」のみを主張するのは、責任放棄に等しい。
幸い、多くの自治体が独自の取り組みで、検査-隔離体制を築きつつあるのは、新型コロナウイルスの蔓延を終息向かわせるための大きな前進と言えよう。
新型コロナウイルス感染症は、潜伏期間が長く、また無症状感染者が感染させるというこれまでにない感染症であり、韓国、台湾やベトナムで行われたように感染者を徹底的に隔離する以外に有効な対策はないと思われる。これはまた、古より培われてきた知恵でもある。
快復者(自然免疫を持っている人)が増加すれば、集団免疫によって感染が終息に向かうが、その効果は、本小論で無視した項から生じる。しかし、この効果が顕著になるのは数ヶ月から 1 年先のことである。自然免疫を持つ人が増えるのを待つ間に、数 100 万人の感染者と数万人の死者が出ると予想されており、スウェーデンが採用しているこの方法は到底受け入れられないであろう。
最後に、最近テレビでよく聞く PCR 検査の陽性率について触れておく。著名な学者も「東京の陽性率が高く、大変危険な状態だ。」と述べられていたが、陽性率を考える場合、検査対象となった母集団によってその意味合いが異なることに注意する必要がある。検査対象が無作為抽出された市民であれば、陽性率を市中感染率の尺度として用いることができる。しかし日本の場合、主として濃厚接触者や感染が強く疑われる者のみを対象として検査が行われており、陽性率は「その方々の接触の濃厚度」を表す尺度と考えるべきである。隔離対象者を市民の中から効率よく見つけて検査すれば、必然的に陽性率は高くなる。

 固い書き方を貫いておられるので、少々読みにくいんですが。

 読んでいただきたいのは、赤にした部分です。

 元の文章そのままですが、(隔離率)(減少率)というのは、原文に私が付け加えた部分です。

 固く表現するのをやめると、こういうことです。

 「医療崩壊を防ぐために PCR 検査数を極力減らす」という方針が、結果として「隔離率」 を小さくし、「減少率」 が大きくなって、市中の感染者を増加させたことになった。

 隔離率を上げるために、効率的な検査体制と隔離の仕組みを作ることは政府の責任である。政府が、「接触 8 割減実現」のみを主張するのは、責任放棄に等しい。

 

 計算式の部分は、ほとんど分からないのですが、一点だけ、分かるところは。

 北海道大学の西浦教授の数理モデルは、SIRモデルと言うもので、100年前のスペイン風邪の時に作られた数式だそうです。

 その式では感染者(式中では「I」)の数を計算しているんですが、それには、発病してしまった人を見つけて隔離するという部分が入っていないんです。西浦教授の方も見に行きましたが、そこは分かります。

 ところが、今は、検査によって感染者を見つけ出すことができるので、隔離をすることができる。

 西浦教授のSIRモデルでは、隔離された人も、市中で感染を広げている人と同じ扱いで、計算されてしまっています。

 そこで、感染していて隔離されている人を、Qとして、新しく、SIQRモデルというのを作られて、計算されています。

 そうすることで、検査して隔離をするということを、しっかりするのか、いい加減にしかしないのかによって、感染者の増減に大きな影響を与えるということを、考察として、試算されているのです。

 また、検査をどのくらいするのかということと、それは結果的に、隔離をどのくらいの率で進められるのかということを、関係づけた式も作られています。

 さらに、その式の中には含まれない要素、市中の人で発症した人を見つけて検査するだけでなくて、その周辺の濃厚接触者も検査しているということで、その分は、数式の結果よりも、効率よく見つけられているだろうということも書かれています。

 要するに。

 検査をしっかりすれば、こんな極端な自粛で、国民に不自由を強いる必要性はなくなるのではないか?

 国民に、8割の行動制限ばかりを求めて、すべき検査と隔離を進めないことは、政府の責任放棄である。

 ということを、仰っている訳です。

 個人的に思ったのは、九州大学の名誉教授にまでなられているカシコの人は、日ごろは、決して激しい物言いはなさらないのではないかなあということで、こんなにはっきりと「責任放棄」と表現されている言葉の強さに、驚いたんです。

 そこに、見えてしまいました。

 みんなが不幸になるのに、手をこまねいていて良いのか?

 そんな思いが見える気がしました。

 

 日本は、イノベーションが起こしにくい国です。

 前例主義なので、今までの延長上の世界では、ある意味効率は良いのだけれど、延長上の事柄以外には、対応できない可能性はものすごく高いんです。

 今まで通りにしている方が、安全に見えて、危機が迫って来ていても、古いやり方にしがみつこうとする。

 それでは、滅びへの道を行くのではないんでしょうか?

 こっちだ!こっちに逃げ道があるよ!

 そう、大きな声で、叫んでくれている人がいる。

 勇気を出して、危機の迫った場所から、逃げていくべきだと思う。

 私は、911テロを思い出しました。

 あの時、館内に放送がかかったそうです。「落ち着いて、その場にいてください。ビルは安全です。」そのような趣旨の物だったと思うのですが。

 みんながパニックになって、非常階段に殺到したら、将棋倒しになって、死者が出る。落ち着いて、ビルが壊れることはないはずだ。

 実際は、どうだったでしょうか?

 ビルに残った人は、亡くなりました。

 非常階段に殺到することで、身動きが取れ亡くなったら、もっと大きな被害が出ていたかもしれない。それはそうですが。

 残ることは、死を意味したのです。

 現状維持バイアス、正常性バイアスです。

 できることがあるならすべきです。

 昔から信じられていて浸透しているありがたい理論は、そのまま祭り上げられてしまい、固定観念で、その根本を疑ってみることができなくなる。

 外部の人である、小田垣教授は、シンプルに、SIRモデルの式を見て、検査と隔離の効果Qが入っていないとご覧になったのです。

 できることがあるのに、可能性があるのに、新しい世界に踏み込むことを怖がって、自粛を続けるのでしょうか?

 私は、検査と隔離をきちんと進めて、日常を取り戻すべきだと思います。

 

 韓国で、クラスターが出ました。

 この理論に従えば、発症者を見つけて検査し、その周辺の濃厚接触者を探して、隔離する。

 韓国のライブハウスでのクラスターの最初の感染者は、突然、単独で発症した訳でないので、この人がどこから感染したのかも、リンクを追って、検査をする。

 それでは、漏れが出て来るでしょう。不顕性の感染者がいるから。

 そして、次の感染が起こり、発症者が出たら、また検査をして、その農耕接触者のリンクを追う。

 一見、大変な労力のように見えますが。

 大都市圏の人たちが、みんな動きを止めてしまうことの損失と比べたら、払っても良い労力なんだと思います。

 

 こっちに道があるよ!

 その声に、ちゃんとついて行きたいと思うのです。

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