「これから」のこと

 新型コロナ。

 緊急事態宣言解除。

 北九州で感染者が急にで始め、東京で感染者が増え始めた。

 専門家会議が、ピークは、緊急事態宣言前の4月上旬だったと発表。

 専門家会議の概要はあるものの議事録はないと発表され、一方で、専門家の間では、発言内容はオープンにしてもらって良いという声が出た。

 京都大学の藤井さんという人が、5月6日に緊急事態宣言を解除しなかったことに、抗議した。

 それに乗っかるように、ピークがその時期なら、緊急事態宣言自体が必要なかったのでは?という声が上がり始めた。

 

 さて。

 これって、どう考えたら良いんだろう?

 「これから」本当は、どこへ向かうべきなんだろう?

 

 

 まず、第一に、絶対的に主張したいのは、感染者が一定数以上に増えてきたら、自粛なしでは危険だということ。

 特に、関東や関西などの都市部の人が密集している場所に関しては、接触機会自体が多い。

 個人的には、ここ最近、北九州市で感染者が増えてきていることと、東京で感染者が出ていることに関しては、本気で抑え込んだら、北九州の方が、抑え込みやすいだろうなと個人的には思う。バックグラウンドの人口が違うから。

 そして、東京のことを考えると、自粛要請は、絶対に必要だったと思う。三密を避けるだけでは難しかったと思うし、三密を避けるためには、自粛しないと通常通りに生活しつつ三密を避けるは、無理だと思う。

 指数関数的に広がってしまって、感染者がいったん増えたら、そこからいろんな接触によって、次の感染が起こるので、増えた感染者が減るまでには、自粛期間が長くなってしまう。

 本当は、極力抑え込んでおいて、で始めたら、「小さい内に」火を消して回る方が良い。数学的に、絶対にそう。

 一旦、感染者が増えていた以上、「自粛なしで行けたのに」は、絶対にない。

 でもな。

 田舎ではどうだったんだろう?

 あらためて考えてみると、東京での抗体検査陽性が、0.6%という数字を見ると、田舎では、不要不急の県境を越えた移動さえ自粛出来たら、それ以外は、社会活動をしてもよかったんじゃないかと思う。

 それは、後出しじゃんけんの意見だ。

 でもな。

 考えてみた。

 私は、東京の抗体検査陽性0.6%という数値を元にそう考えたのだから。

 各エリアで、緊急事態宣言の前に、抗体検査による感染の広がりを無作為抽出のサンプリングで確認するか、PCR検査でランダムにサンプリングして、市中感染率を確認しておくべきだったと思う。

 そうすれば、その結果次第で、自粛が必要がなかった場所が分かったんじゃないか?

 小野はどうだっただろう?

 神戸への通勤圏だし、生徒さんの生活エリアは、神戸、姫路、大阪への通勤圏の人はいるし、小野よりももっと神戸エリアから離れた場所から来ている人もいて。

 感染率が低かったとしても、とんぼ玉教室は、念のために止めておくべきだっただろうと思う。ウィルスの危険性が、ちゃんと分かってなかったから。

 ピークアウトの話を聞いた時、いや、そのあと増えてたじゃないか!って、意識の中で、変に抵抗する自分がいた。

 そうだ、忘れているんだなあ。時々に思ったことを。

 4月の上旬には、ニューヨークやイタリアでの感染拡大が頭を打ってきた時期だった。

 その時、思ったんだ。

 インフルエンザに季節性があるように、ロックダウンとは別の要因が働き始めた可能性だってあるなあって、あの時期思っていた。暖かくなってきたことも、プラスに働き始めているんじゃないか?って。それは、今も、どうなのか分からないけど。

 

 専門家会議の、クラスター対策と、三密を避ける生活様式を推奨によって、日本は被害を少なく抑えらえた。日本モデルは成功だ!という人がいる。

 何か、素直にそうだとは言えない私がいる。

 まず、「日本モデル」とか、急に言いだすなや!

 日本これで行きます!って、明確には、何も示してないやんか!

 先入観なしに見ている分には、「経済を止める」決断を、渋って渋って、優柔不断にうじうじやっている間に、感染を広げたでしょ?

 早い時期に、一気に止めておくべきだった。それは、ずっと玉川さんが言っていた。

 そうしたら、短い時期の自粛で済んだし、子供たちの学校をこれほど止めずに済んだし、夏の高校野球はできた。

 そして、止める決断をしたなら、各企業や公官庁等に、自粛を徹底して、本当の意味のインフラ以外を、本気で止めておけば、短い期間の自粛で済んだ。

 それなのに、頭の片隅に「経済」「経済」がちらついて、中途半端なことをするから、長引かせて、余計に経済に大きな痛手を与えることになった。

 総理がしたことは、「決断」できずに、「優柔不断」な態度のまま、誰か(国民、専門家会議、知事)が決めてくれるのを待って、決断を丸投げすることだけだった。それが、「日本モデル」だ。

 日本のこの緩い対策で、ニューヨークやイタリアのような事は起こらなかったのは、数々の幸運が重なったからだろうと思う。

 もっと本気でやっていたら、もっと、感染者数や感染者の重症度や後遺症も、経済的な打撃も、被害を小さくできたことは間違いない。

 できることはなかったのか?と言われたら、あったからだ。

 できることをしようとしなかったから、怒りがある。

 これは、危機管理としては最低だと思う。

 被害を予測できなかったと、のうのうと答えた、森田知事と一緒。

 あの台風でも、何をしても、一定の被害は出ただろうけど、あの強さの台風で、一年前に大阪を吹き荒れた台風の被害がすでにあって、海に面した千葉県知事をしている以上、「予測できなかった」なんて、寝言も大概にして欲しい。そういう人は、1人しかいないポストに就くべきでないと思う。

 専門家会議に対して、もちろん不満がある。

 市中の感染率を、早い時期に、把握しようとしなかったこと。

 一人、陰謀説までブログに書いて、市中感染率が知りたい知りたいと、ずっと言っていた。

 岡田晴恵先生と玉川さんは、PCR検査に余力がもしあるなら、ランダムサンプリングで、市中感染率を調べるべきだと、早い内からずっと言っていた。

 そうすれば、日本での感染の広がりが、ヨーロッパ圏ほどは早くないことを、もっと早い時期につかめていただろう。

 私は、ずっと、「来る」「来る」「来る」「感染爆発が来る!」って、ずっと身構えていた。

 なぜなら、サイエンスをかじった人の端くれだからだ。

 どこかで起こっていることは、何か特別に違う背景でもない限り、一般的には起こると考えるからだ。

 ご都合主義に、「どういう訳か、自分だけは大丈夫」とは考えないのが、科学的な姿勢だと思う。

 それでも、どこかで、本当にウィルスは、そこまで身近に迫っているんだろうか?って、疑う瞬間があったことは、ブログのどこかで書いていたと思う。

 分からない、分からないと書いていた。

 何故、脅威に対して、攻めの姿勢で、できることをやらないんだ?

 調べて置けば良かったじゃないか?

 

 もう一つは、PCR検査を、重症化する人以外は絞ってしまえという姿勢だ。

 前にも書いていたけれど。

 インフルエンザなら、かかりつけ医で、検査して陽性ならタミフル。

 通常の風邪なら、総合感冒薬を薬局で買って、家で寝る。

 本来そうあって欲しいのに、地域の中核の救急を備えたような医療機関にいきなり行ってしまう人を、本当は迷惑だと感じていた、その意識の延長だったと考えたら、辻褄が合う。

 なので、指定感染症になってしまったから、建前は大げさに、本音は、風邪に騒ぎすぎ、重症化してからで十分なのに面倒という、二枚舌(ダブルスタンダード)が、あったからとしか思えない。

 でも、どこかの時点で、これは違う!と思って欲しかった。

 どこか?

 イタリアとニューヨークで、感染爆発が起こって、死者が多く出ていることが分かった時点で、PCR検査を、あらゆる有症者に広げて、感染拡大を防ぐために舵を切るべきだった。

 感染爆発に備えて、PCR検査を増やすためのあらゆる手段を講じるべきだった。

 さらに、朝元気だった人が、夕方には急変していると言われ始めた時、何が何でも、PCR検査を増やしておくべきだった。

 自宅待機でも構わないから、あらゆる有症者の数を掴んでおけばよかった。

 さらに、濃厚接触者から、無症状の感染者も、掴めるだけ掴んでおくべきだった。

 PCR検査は、自動の検査を導入することで。

 検体を取るところは、かかりつけ医でPCRセンターを作って。

 抗体検査は、医学とは関係のない、生物学系の人たちを中心にして調査すればよかった。いや、物理系でも化学系でも、実験はやっているから、できるで。

 これだけ調べ上げて置けは、日本人の被害をもっと小さくできただろうし、日本では、ヨーロッパほどの感染拡大が起こってないことが、早い時期に分かったはずだ。

 窓から偵察することなしに、オオカミの声を聴いて、オオカミの大群が来るんではないかと、数匹のオオカミに、家の中で篭って、おなかをすかせながら、ぶるぶる震えていた。

 扉をあけ放って、みんなで追い返せた可能性は高い。

 

 今馴染んでいるやり方を変えたくない。

 そういうのを、「現状維持バイアス」というんだそうだ。

 何かと変えたがる人も、ごく一部にはいる。日本人は、新しいことを取り入れるのが好きな人は少ない。

 PCR検査を増やせなかった理由は、精度を上げるためとか理由付けしているけれど、自動を導入したくない、現状維持バイアスのせいだったと思う。

 自分が高度な技術を持っていると思っていることが、自動化で簡単にできてしまうと、自分を否定されたような気がするから。

 お気の毒だけど、仕方ない。

 それが、現実だから。受け入れている方が得だ。

 なぜなら、抵抗したところで、世の中は変わるから、自然な流れに乗らずに、屁理屈こねて抵抗していれば、あとから、残念な評価を受けることになる。

 まあ、とんぼ玉の世界に例えるなら。

 凄い新人が出てきたとする。

 自分の作家としての立場を本気で守りたいなら、凄い人は凄いと、オープンに認めておいて、自分が大きいことを示しておく方が良い。

 下手に潰そうとしようものなら、それで潰れてくれるならともかく、そうでなかったときには、その人は敵になるから。

 そして、そういうすごい人の作る作品が、業界全体の活力になる。

 マンネリ化した作品しか出てこない世界になったとたんに、とんぼ玉業界そのものの魅力が、維持できないことになる。

 なので、変化は、自分にとって、痛かったり妬ましかったりしても、その向こうの、本当の得のために、判断しないといけないと思う。

 ま、人にもよるけど。

 私に関していえば、凄い人をいちいち妬んでいたら、たくさんすぎて、キリがないと思う。

 

 人は、そういう本当の得の前に、いろんな、目先の自分の利益を守ろうと必死になる生き物で。

 仕方ない。

 そこにあるのは、恐怖心のようなもだから。

 ないかと聞かれたら、いっぱいある。

 でも、本当の得のために判断をしたいし、自分の分不相応な何かを守るために、必死になって自分の時間を費やすのは嫌だ。結局空しい悪あがきになるし、悪あがきの瞬間瞬間は、そんなに楽しい物でもないだろうと思うから。

 そう、結構、そういうとこを自分で気づいてしまうので、ああ、私アホやなあって思う。自分にウソがつけない人種なんですよね。

 一時は、うまく行ったように見えても、続かないと思う。

 っていうか、私の場合は、腰が重すぎるので、「やることをする」っていうシンプルなところに最初のハードルがありますが。「動け!コラ!」って感じ。

 

 で、話は、変なところに戻るのですが。

 専門家会議の議事録がない。

 どういう進行だったかの概要はあるけれど、個人個人の発言がどうだったかは残っていないという。

 闊達な意見を出してもらう妨げになるからって、どういう理由やねん。

 結局は、ここに、今の「政府」の実情が、如実に現れている。専門家会議ではなくて。

 最初は、尾身さん西浦さんはじめ、専門家の人たちの保身のためかと、勘違いしてしまった。

 専門家の人たちから、発言はオープンにしてもらって構わないという意見が出たと聞いて、自分の解釈の間違いに気づいた。

 当然や。

 そこに座っていられるほど、人間世界をきっちり渡り歩いてきた人たちで、私みたいなうっかりとは違う。

 専門家会議に入った時点で、発言はちゃんと考えてしていらっしゃっただろう。議事録残されて困るようなことは、最初から言うつもりはなかっただろう。

 残された困ること。

 言うべき時に、言うべきことを、きちんと言えなかった。

 普通で考えたらあり得ないくらいに、判断がおくれたり、見当違い過ぎたこと。

 つまり、オープンにして欲しいということは、それはなかったという自負があるということ。

 最初は、こう判断していたけれど、事実が分かって来るにつれて、この時点では考えを改めるべきだと判断した。そういうことが、ちゃんと、言葉に残されていたんではないのかなあと思う。

 途中から、プランAでは現状に合わないという判断の元、プランBに移行し、その次にはちゃんと理由あってプランCへと移行していく。

 これは、科学としては正しい。

 そうであったら、それも残してあったろうし、それをオープンにすることは、正しい。

 オープンになることに抵抗をすることは、その向こうの、本当の大きな不利益になることを、ちゃんとした理性があれば、分かっているはずだから。

 だったら、何故ないんだ?

 誰にとって、議事録は都合が悪いんだ?

 ま、結論は簡単ですね。

 総理ですよ。

 専門家の意見を聞いてこうするって、必ず何かを決めた時、最初に、「私が」ではなく「専門家の方の意見で」と言うことに、魂胆見え見えでしたけどね。

 専門家の意見と、それを元にその時自分が下した判断が、白日の下にさらされるのが嫌だった。

 会議の概要という形にしておけば、かなり恣意的な表現も可能だったろう。

 腹が立つというよりも、がっくりと、力が抜けた。

 もうアカンわ。

 この危機を前に、こんなこと、ようできるな。

 私なら、人が死ぬ、人が苦しむ、それが自分のせいと思ったら、こんなこと無理。

 自分で知っているから、自分を責めて苦しくなる。

 

 世界にはいろんな人がいる。

 その多様性がなければ、人類は滅びる。

 ありのままの自分を尊重してほしければ、自分と違う他者のありようも尊重すべきや。

 分かっちゃいるけど。

 人は、いろんな瞬間に、いろんなことが怖くてウソをつく。

 でも、ウソにウソを重ねたら、結局、どんどん自分を追い詰めていくことになる。

 もっと大きな不利益を恐れたら、できないこともある。

 それは、単純に良い人だからではなくて、究極の保身なんだと思っているけど。

 もうエエわ。

 

 ただ、この後の感染のコントロールは、ちゃんとやってくれ!

 最初の、武漢縛りにこだわったクラスター対策は、ちょっと違っていたと思う。

 クラスターを追うことは、有効だった部分は大きいと、今なら思う。

 以前は、ざるの目で、漏らしまくっているんじゃないかと思っていた。

 でも、そこまででもなかったのかも知れない。

 というのは、症状のない感染者よりも、症状のある感染者、そして症状が重い感染者からの方が、感染が起こりやすいであろうことが見えてきたから。

 抗体を持っている人の比率から考えて、検査陽性として拾えていた人以上に、感染者がいいたことは間違いない。

 でも、そのうちのかなりの人(もしかして半数くらい)が、無症状もしくは軽症で、あまり感染をさせていないという一群があったんだと思う。

 最初の内のクラスター対策で、症状が鮮明な人たちを、ある程度効果的に拾えていたんだろうと思う。

 もちろん、武漢縛りによって、洩れる人がいて、経路不明者として感染を広げているようなことも起こっていて。そこから、新たなクラスターが起こり得る状態だっただろう。

 検査を絞ったことで、クラスター対策そのものの信頼性を失う結果になってしまったんだろうと思う。

 もっと、有症者をもれなく見つけていたら、どの時点まで、クラスター対策が有効だったか、証明できたのに。

 それは、今後のことを考えても、データとして欲しかった。

 

 今、専門家会議も、検査を増やそうという方向になっている。

 抗原検査はあるので、有症者なら一定量のウィルスが唾液で増えているはずなので、有症者を効率よく見つけることはできるだろう。

 抗原検査で見つけにくい、それ以外の人を、PCR検査に回す。

 これで、ほとんどの有症者を見つけ出せていれば、感染の広がりが分かった状態にできる

 安心だし、どのエリアでどのくらい自粛をする必要があるのかという、きめ細かな目安にできる。

 広がり過ぎる前に、きめ細かく、小さなうちに潰していく。

 後は、手洗いをする、換気をする、飛沫が飛びそうな状況を出来るだけ作らないなどの感染対策をしつつ。

 できることが増えていくと思う。

 遊びに行きたい、天文台で星みたい、ご飯も食べに行きたい。

 でも、その前に、感染を広げなければ、介護施設や病院に外からウィルスが持ち込まれる危険を減らせるし、学校が再開できる。

 検査の手間を惜しんだことで、全体像が見えなくなって、見えてさえいたらできることまであきらめることになるのは、とても残念だ。

 

 話は、とても飛ぶのですが。

 岩田先生が、検査に否定的なことを書かれていた。

 そう、完ぺきにしないと、こっちが「清潔エリア=グリーンゾーン」で、こっちが「不潔エリア=レッドゾーン」と、ゾーニングして運用しているつもりが、市中からスタッフがウィルスをもらってきてしまっていて目に見えなかったら、グリーンゾーンがグリーンゾーンで無くなる訳で。

 患者さんを検査しても、結果が出るまでから、防護服を着て厳重にやらないと、陽性が出てから防護服を着ていては、辻褄が合わない訳で。

 それを言いだしたら、発熱している患者さんでも、本当は感染していない人と、感染している人が隣り合っていてはいけない訳で。

 理系の厳密さをもってすれば、「ぎゃ~!」って叫びたくなる状況で。

 そのつじつまを合わせるためには、全ての人が感染している前提で対処しないと「洩れ」が生じてしまうっていうことや。

 まあ、現場の対処としては、ホンマに難しい。

 一部洩れがあっても、大きな塊を除けているから良しとするしかない。それが気持ち悪いんやろうなあ。

 

 でもな。

 市中は違う。

 全員でなくても、7~8割掴んで隔離して、洩らしたところからまた増えて、そこをまた7~8割掴んで。

 そのイタチごっこをしながらでも、感染者を一定以下に抑えられたら(目安は、有症者の増減でわかる)、市民生活の自由度は上がる。

 医療のためだけの検査じゃない。

 越智小枝さんのブログを読んで、不機嫌に、違うやろ!と言ったあれが最初やな。

 検査を、医療からしか見ていない。

 検査で全体像をつかむことは、私たちの社会生活の質を保つために、必要な物だと思う。

 

 本当の、「日本モデル」を。

 検査体制の充実で、感染者数を増やさず、クラスター対策が有効に働き、クラスター対策から洩れる「ランダムリンク」も検査で地道に拾っていく。

 清潔習慣によって、感染の広がりを抑える。

 症状が出たら、気づいてもらえる安心感がある。

 そういう、日本モデルが、できて行けば良いのに。

 

 当面は、北九州と、東京の成り行きを見て、その結果で、またこの先を考えるしかないですが。

 神戸大学による、兵庫県の3000人規模の抗体検査、結果を待ちましょう。

 絶対、北の方は、クリーンだと思う。

 さて、真ん中あたり(小野を含む)は、どうでしょうね。

 

 さ、仕事行こう。

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