今日の星占いは、「本音を語ってみて」って出ていた。
だからってことではないのですが、今日は、その「HSP」の記事を読んで思ったことを書いてみようと思います。
HSPとは、「Highly Sensitive Person」の略だそうです。
5人に1人くらいいる、敏感な人で、その敏感さゆえに疲れやすい。
ということは、悩み事も共通している。
これが言われ始めたのは、最初に提唱した人が、自分自身がそうだったからのようです。
これについて書かれたとある記事には、とても疲れやすいのと、こういうことは苦手なので、その部分を気を使ってあげましょうっていう記事で。
何か違うんでない?って、反発を感じてしまった。
理由はいろいろ。
5人に1人もいるのに、もしも気を遣うのであれば、そんな一律の括りで同じ対応はないやろう?
他人の意識に敏感ということは、「相手に気を遣わせている」「腫れ物に触るような対応をされている」事に気付いて、傷つけることになると思うけど。
5人に1人ということは、敏感で疲れやすくはあるけれど、そのことを自分の武器に出来ていて、困難を感じていない人も多くいるし、敏感の度合いがよほど強いと、深刻な悩みを抱える人もいる。
それに、敏感であっても、思想や志向や価値観は、人それぞれなはず。
実際に、HSPに当てはまるという人が書いていた。
HSPというラベル付けをするのは、「私はHSPだから気を遣え」というような用い方は間違いで、「本人の気付きによって、自分の特性を生かして良い人生を送るための物」とするのが正しいと。
全く同感です。
分析が大好きです。
もちろんこういうのを見ると、自分はどうなんだろう?って、思ってしまいます。
でね、めんどくさい人なもので、分析してしまうと人に話したくなり、「自分のことばかり話す人」「自己愛の強い人」として、問題のある人格の括りに入ってしまうんじゃないかと、自分のことを疑ってしまっていたんですよ。
でも、気づいた。分析をするときのサンプルとして、自分が一番近くにいて手っ取り早いから、自分の分析が多くなるって。
あ、話を戻します。
HSPの傾向が強いかどうか?
匂いに敏感。
雑踏やバーゲンが嫌い。
大音響で音楽を聴くのが苦手。
美しい景色をいつまでも見ていて飽きない。
ほらほら、この辺は、ばっちり一致します。
ところが、自分の関心に集中しすぎる傾向があるので、その時は、周りのことは見えていません。
ハッと気づくと、周りに顰蹙を買っていることがあったりすると、そのことは痛いほど分かって、しょぼぼんとなる。
なので、周りの人の感情に敏感かと言われると、決して鈍感ではないと思うんだけど、常に周りの人の気持ちにいち早く気付いて、きめ細かな気配りができるというタイプとは、明らかに違う。
きめ細かな気配りタイプは、周りをとても大事にしているし優先順位も高いけれど、私の場合は、自分の関心事にロックオンされるために、周りを見ないワガママな人の括りに入りやすい。
ざっくり言うと、凸凹が多いと、自分の性格に悩みを抱きやすいんですよね。
ずっと、そういう人でした。
HSPか?と言われると、部分的にはそう。
でもな、2割もの人がそうなら、その中身は千差万別なんだと思うよ。
そもそも、何で最初に提唱した心理学者の人が、こんなことをわざわざ言いだしたのか?
個人的に思うんですけど。
彼女?彼?の中に、気づきがあったと思うんです。
あ、他の人は、こんなに匂いに敏感ではなかったんだ!
あ、他の人は、人に怪訝な顔で一瞬見られたからと言って、こんなにグサッと刺さらないんだ!
などなど。
「なんだ、私って、平均より敏感だったのか!」って、気づいた時に、それさえ分かれば、世の中が正確に見えてきたんだと思うんです。
その気づきは、とっても画期的な事で、それが分からないから腑に落ちないことが多かった可能性がある。
なので、他の人で、同じような腑に落ちないことがある人に、教えてあげたらきっと助かる人がるだろうって、思ったんだと思います。
子供の頃、今一部でもてはやされている「古民家」で、リアルに暮らしていました。
建て替えのために取り壊した時は、80年を超えていた。もっとかも知れない。
玄関から入ると、土間があって。
向かって右側が機織り部屋という3畳と窓際に少し板の間のある部屋で。おそらく板の間の部分に機織り機を置いていたんだろう。
左側が家のメイン。口の間があって、その奥に仏間。仏間の北側が納戸で、口の間の北側が居間。
土間を入って行くと、格子戸の引き戸があって、その奥に広い台所の土間があった。
土間は吹き抜けになっていて、
おくどさんがあり、煮炊きの蒸気が吹き抜けに上がって行くようになっていて、見上げると黒い木の梁があった。2階の高さの東側に小窓があって、朝日がさしていて、太陽が昇って高い位置に来ると、土間の隣にある居間のところまで陽が差していた。
おそらく後になって、その土間の一部に板の間を増築したらしく、その4畳半に飯台が置かれていて、そこでご飯を食べていた。
居間には、ハシゴか?くらいの階段があって。ちょうど白川郷の合唱住宅の中にあった階段とそっくり。
白川郷に旅行に行った頃には、古い家はすでになく、その階段の上り下りで、体が覚えているのが妙に懐かしいと思った。
二階には、4部屋があった。口の間、居間、納戸の上に、各一室で3室。仏間は天井が高かったので、仏間の上は物置。入り口の土間と機織り部屋の上に一室。
とまあ、こんな作りだったんですけどね。
今思えば、もっと写真を撮って置けば良かったかな。
そうそう、本題は、そのお台所の土間なんですよ。
土間が広かったので、七輪で何かを焼くとき、土間に持ち込んだりしていたんですね。餅つきの時にもち米を蒸すときに使うかまどがあったけど、通常はコンロ台のコンロを使っていて、たまに、七輪も登場していた。
ある時、ボロボロになった七輪を買い替えたんです。
新しい七輪がやって来てから、七輪で物を焼いていると、妙に不快な臭いがしてくる。
えも言えぬ不快なにおいに、大泣きして、外へ出してくれと騒ぐようになった。
私以外にはだれにも臭わないので、気のせいだと説得されたものの、頑として聞かず、あまりの不快さに、大声を上げて切れ始める。
自分の娘のこのありさまに、教育上よくないと思ったらしく、ひどく叱責され。
という、おバカなやり取りをしてしまっていた我が家でした。
普通なら、出て行けば良いんです。ほかの人がその匂いの中にいようと気付いていないんだから放っておけばいい。そう考えないところが、私の我の強いところです。
でも、あそこまでねじ伏せて大人しくさせることが、おしとやかな娘を作り上げるための必要な教育で愛情だと信じていた父も、ちょっとピンボケです。
この七輪事件は、私が勝って、七輪は外に出されます。
が、私の中には、ワガママな私、悪い子ちゃんな私という、自分への悩みが残った。
それから、30年以上が経過したある日のこと。
スタジオモリオが、まだ京都にあった頃。
ジェニファー・エンフレスのデモ会に出かけまして。すっごく良かった!良い物を見ました。
この時、デモの中盤から、あの七輪の匂いがし始めたのです。
守男さんが「NOxが溜まって来たみたいなので、換気をします。」って、ドアと窓を開け放った。
何でも、NOxは、重いらしく、足元を開けないと換気できないんだとか。
守男さんによると、デモ中の酸素バーナーの炎のごく表面だけがオレンジ色になっているのが、NOxが溜まってきているサインなんだそうで。
酸素不足の炎だと、炎全体が不完全燃焼のオレンジ色になるんですが。
酸素が足りているのにNOxが溜まって来ると、表面だけがオレンジになる。
守男さんは、においで気づいた訳ではなかったんです。
炎の色が戻ったので、ドアを閉めますって、閉める頃には、七輪の匂いは消えていた。
NOxか。
七輪が新しくなったことで、燃焼効率が良くなったのかも知れない。
エアバーナーでは出ず、酸素バーナーだと出ます。
そして、下にたまるガスということは、家族の中で真っ先に私が気付くのも、もっともで。
もともと、父も鼻はめっぽう利く人だったので、何で私だけが気付いたのかも、不思議ではあったんです。
NOxも、もちろん濃度が濃いと、人体に影響があります。
ほらほら、出て行かず我を張った私に感謝しろ!
と、今の自分は、当時を思い返すのです。
敏感であることが、自分を助けることもある。
が、鈍感な人にとっては、鈍感であることが自分を助ける局面もある。
それが、神様が、人類を生き残らせるために与えた「多様性」という物なんだと思います。
においの話を例に出したのは。
自分が鼻が利く方だという自覚はあったものの、自分の悩みは、単純にその違いによる感じ方のギャップで、お互いが相手のことを理解できてないということで生じるって、あるなあって思う例だからです。
鼻が利くことは知っていても、その小さな違いが、見えない大きな感じ方の差になって行くことには、なかなか意識が行かない。
何って、始まりはそんな小さな違いなのですが。
そういう物に気付いて行ったとき、自分が変な人だっていう悩みの原因は、単に気付いただけ、単に疲れやすかっただけかもなって、安心できた。
それが分かってたら、どうとでもやりようはある。
早く知りたかった!
と、HSPという概念は、本人が気づきとして使うべきもの。
繊細だから気を遣えって、繊細でも、中身は図々しいわ!
ずっと前にテレビで聞いた話では、赤ちゃんは、音も光も、あらゆる感覚から、多くの情報が流れ込んできているのだそうだ。
が、発達とともに、自分が生きて行く上で重要な情報のフォーカスするように、要らない音を脳みそがカットしてしまうし、光(つまり景色)もまた、自分の生き残りに必要な物にフォーカスしていくらしいのです。
すべてを入れるのではなく、フィルターで、要らないものをカットしている。
なので、雑踏の中で生きて行ける。
敏感も、一律敏感なのではないと思う。
いろんな感覚がある訳で、それぞれに対して、敏感の度合いが違うと思うし。
臭い一つとっても、敏感、普通、鈍感と、三段階なのではなくて、グラデーションのように、いろんな度合いの人がいる。
閾値は、人によって違う。
もしかしたら、その閾値は、子供の頃の環境が影響しているかも知れない。田舎の子は、より雑踏が苦手みたいな。
でも、雑踏への適応能力も、人によって違うので、何でも来い!な人もいると思う。
どこに閾値があるのが正解なのか?という答はきっとない。
この頃、何でこういう話が出てくるのかなあ?って、またまた考えてしまった。
一つには、都市化が進んで、敏感な人には、余計に負担がかかっているのかも知れない。
もう一つには、現代人は、画一的な基準に押し込められ勝ちなのかも知れない。
まあ、昔から、画一的であることを求められることはあっただろうとは思うけど。
多様性を認めようって、この頃よく耳にします。
が、それって、難しいから、敢えてそう言わないといけなくなるんだろうなあ。
でも、誰かに分かって欲しいではなくて、せめて自分だけは、外れてしまった部分を持っていることも、そこから逃れられないことも、素直に認めて、受け入れて行ければなあと思うのです。