羽鳥慎一モーニングショー、テレビ朝日で午前8時から放送してますけど。
先日の通り魔事件を扱っていて、「切り口」に、感じ入りました。
最初、事件を聞いた時には、犯人への怒りだけがあったけど。
徐々に、犯人の過去を聞くに至って、違う考えが生まれてきた。
日常が突然奪われる、自分の大切な人の人生が、これからもあったかも知れない、それが失われる事実を、どう受け入れたら良いのか、その痛み、想像するだけで震えが来ます。当事者の方にしてみれは、もっともっとだと思う。
この死を無駄にしたくない。何か、意味のあることにつながって欲しい。
それを心のよりどころにされるケースも、聞きます。
この事件を、どうとらえて、何に生かしていくのか。
「モーニングショー」は、そういう切り口だったことに、ちょっと、感じ入ってしまいました。
犯人は51歳。
私とは、1歳か2歳違い。
私が通っていた小学校では、うちの学年では、3クラスで121人くらいでしたが。
両親が離婚していたのは、おそらくそのうち一人でした。
当時は、そのくらい珍しいこと。
両親が離婚した同級生も、抱えた傷は深かったろうと、大人になってから改めてそう思います。
ましてや犯人は、両親がどういう事情でか、祖母に離婚させられ、その祖母と父の兄である叔父夫婦の家で過ごす。
そういう状況で、私だったら、何を心の頼りに生きて行けただろうかと思うのです。
世の中には強い人はいる。
きっとそんな環境でも、努力して、強く生きて、立派に社会人になり、家庭を持ち、幸せを手に入れる人もいる。
今流行っている、「レジリエンス(復元力)」の強い人なんだと思う。
でも、全員がそうではない。
そこから漏れていく人はいる。
この事件で、「モーニングショー」は、中村カズノリさんというカウンセラーの方を呼んでいた。
システム関係のお仕事で、昼夜逆転などが起こり、睡眠がコントロールできなくな病気になり、24時間寝られてしまう「過眠症」というのになってしまい、夜寝たら、目覚めたら翌日の夜だった。当然、その日、無断欠勤になってしまう。
すぼらでもなんでもなく、病院にかかっても、投薬しても、治らず。
当時は離婚して一人暮らし。
会社からは、短時間勤務にするよう言われ、収入が10万円を切る。
それでも治らず、ついに、辞表を書くように勧められ、辞表を提出。
その直後、「自殺なんかしないでね」という人事の言葉に。
それまで自殺なんて考えもしなかったのに、「この人何言ってるんだ?何で僕が死ぬんだ?自分が死ぬくらいなら殺してやる。」
そんなスイッチが入って、無差別殺人をしようと決心する。
狙うのは、元の会社で、定時に出勤できている奴で、それならば誰でも良かった、のだそうだ。
でも、会社の中でよくしてくれていた人は、外そうと、一方で、冷静に考えていたんだそうだ。
それに至らなかったきっかけ。
のところで、うちに、介護施設のお迎えが来て、そこだけ見られなかった。気になる。
そう。
痛ましすぎる死を無駄にしないためには、次の事件を起こさないための努力がいる気がする。
ここまで追いつめられる前に、手を差し伸べられる社会であれば、と思うようになりました。
自分は、セーフの側の人だから、アウトの人は、自己責任。
そういう見方もあるでしょうけど。
例えば、会社が倒産したり、突然交通事故に巻き込まれてけがをして、前のように働けなくなった時。
いやいや、周到に保険かけてますからという人もいると思うけど。
事故が、補償対象からたまたま抜け落ちてしまう状況だったりしたら。
昨日までセーフだった人が、あっという間に、困窮側に来てしまいかねない。
そんなときに、社会に余裕があって、人に少しでも優しければ、追いつめられないかもしれない。
先日の無差別殺人の犯人も、過酷すぎる子供時代から、立ち直れたレジリエンスの高い人の側に行けなかった人で、そういう人は、きっと一人ではなく、困難を抱えている人は、あちこちで複数いて、孤立して困っているのだろうと思う。
自分で努力しな!っていう考えもあると思うけど。
それに失敗した人を放置するしかない、余裕のない社会では、いつでも、追いつめられた人の絶望と殺意というリスクが高い状態に置かれることになる。
何かできれば、そう思うことは、追いつめられた人のためだけではなく、普通に生きて行けている人が、先日のような悲劇に合うリスクを下げることにもなるんだろうなあと思った。
今、都会では多すぎる人が暮らす中、当然のようにプライバシーが重視されるので、個々の外側に薄いシェルターのような覆いができて。
ともすれば、自分を守るはずのそのシェルターの中で、孤立してしまいかねないっていうことなんやな。
赤毛のアンの舞台では、みんなキリスト教徒で、日曜のミサに行く。
おばさんたちが集まって、お茶を飲みながら、教会のバザーで売るためのキルトをみんなが作る。
そして、集まったお金で、いろんなボランティアをする。
そういえば、エジプトのイスラム圏でも、日頃の経済活動とは別に、宗教でつながったコミュニティで、困窮した人を助けるセーフティネットがあるんだと、テレビでやっていたのを見たことがある。
さらにそういえば、江戸時代の江戸も、セーフティネットがあって、大火で焼け出されたら、食事を提供してくれたりするセーフティネットがあったそうで、昔のことだから、それで手を差し伸べてもらった状態でも厳しかっただろうと思うけど、意外と、精神的には、何かあってもどうにかなるんじゃないかという部分もあったんですって。
そういう意味では、孤立化できてしまいやすい環境。
そうなったときに、外の世界とつながるきっかけを掴みにくい状況であれば、どんどん追い詰められかねない。
田舎で、いろいろジリ貧になって、きつい時。
そこそこいい感じで、親せきや昔馴染みが、いい距離感で気にかけてくれるのは、きっとありがたい。
もっとも、周りの人が経験不足から、意図と違うかかわりをしてしまったら、返って、殺意の引き金になりかねない可能性も高そうなので。
ある意味、放っておいてくれない田舎の功罪あるとは思う。
でも、エネルギーのない時に、自分から勇気を出して関わらなくても、向こうからきてくれるというのは、相手次第ではあるけど、概ね、ありがたいかなあと思います。
都会ならどうだろう?
追いつめられた人に寄り添えないと、返って追い詰めかねないんだろうけど。
寄り添えるエキスパートがちゃんと参加したセーフティネットを作るべきだろうという議論がされて行くと良いなあと思った。
だって、いつ自分が、そっち側(追いつめられた側)に行くことになるかもしれないし。
年だし、自営だし、独身だし、結構境界線から遠いところにいる訳ではないもんなあ。
境界線から遠い人でも、決して当事者にならないとは限らず。
普通に生きている側に人にとっても、セーフティネットがある社会の方が、人には優しい社会なのではないのかなあと思う。
簡単なことではないだろうけど。
そのコーナーの前に、「隣人トラブル」をやっていて、見てるとストレスになるので、しばらくチャンネルを変えたんだけど。
家を買って引っ越して来た夫婦が、隣の70代老人から、嫌がらせを受け続けていて、一度は警察に留置されたものの釈放、その後は法律に引っかからない範囲で巧妙化して嫌がらせが続く。どうにかできないものかと、防犯カメラの映像を公開して、相談していた。
どうにもできなさそうな気がしていた。
でも、だったら誰がやるの?って話ですが。
怒りの制御がきかなくなった老人をどうにかするには、「北風作戦」ではなくて、「太陽作戦」なら、迷惑行為を繰り返す老人の気持ちを溶かせるのかもなあと、ふと思った。
きっと簡単ではないだろうけど。
方法論としては、「北風作戦」では、打つ手なしってことになるもんなあって、関連付けて思ってしまった。
そうそう。
私の年に近い人で、当時少なかった両親が離婚した人が、他にもいた。
その人は、「レジリエンスの高い人」だったらしく、ちゃんとした大人になっている。
詳しい事情までは分からないけど。
その人のそばには、頑張るお母さんがいたことだけは知っている。
そのお母さんのために、壊れる訳には行かなかったんだろうと思うし、お母さんの愛情で、自己愛を保てたんだろうと思う。
でも、環境的に簡単ではなかったんだろうなあとか、ホントに複雑で、心折れる日もあったろうと思うけど。
ホンマに、人は、人が救うんだろうなあと思う。
とんぼ玉を作っていると、人と出会わないことが多い。
そんなとき、トラウマに触れる瞬間(例えばテレビ番組で関連した内容の放送を見るとか)があると、良からぬストレスと、割り切っているはずの何かが、ふつふつと湧いて来て、ちょっとした絶望感に陥ってしまいそうになる。
ああ私はダメな人間に違いない、だって、社会的に成功しているといい難いもん、そう思って、自分を責めてしまう瞬間がある。
そして、自分の生活のサイクルの中で、人に会うことになる。
いろんな話をすると、「ああ、人にはそれぞれ、悩みはあるんやなあ」って思えて、「自分のマイナス部分は、誰しも持っているものを、自分の分として持っているんだなあ」と、思い直せる。
私は人間を大雑把に2種類に分けると引きずるタイプの方の人で、良くないことも引きずるし、怒りも引きずるし、その代わり、楽しいことも、うれしいことも引きずるタイプで、いわゆる、今時歓迎されない、切り替えの悪い脳内物質の働きを持った側の人なので。
落ち込む日もあるさ。
で、私はダメだ、私はダメだ、そう思い込んで、ドロドロ黒いダークサイドに落ちそうになった時、そういう状況を切り替えられるのは、人と会うことだけだと、自分の経験から思う。
その時に、今回の犯人の両親を離婚させた厳しい祖母みたいなタイプの人では、逆効果だと思うけど。
でも、そのおばあさんにはおばあさんなりの偏りの中で生き、きっとそれはそれで、生き方としては不器用で、自覚があったのかなかったのか、本人のしんどさも、もちろんあったことだろうと思う。
きっと、人に会わない暮らし、それ自体、人を健康に保たせることが困難な環境だと思う。
人と会うことは、AI にはない心の動きがある以上、やはり高度なやり取りで、必ずエネルギーがいるし、人付き合いが得意な人にとっても一定のストレスだというし、ましてや日ごろから人付き合いが少ない人には、よりストレスになるだろうと思うけど。
でも、「ない」のは、きっと人にとって論外だな。
今時、景気が悪かったり、ネット検索でかからなかったり、冗談めかしているけど冗談やないで!っていう世の中で。
いつでもプラス思考!なんて、おめでたい状態をキープしづらい日もあるけど。
そこは、人と会うことで、きっと救われる。
この頃そう思います。
あらゆる場面で、関わってくださるみなさま、本当にどうもありがとう。
今日も、強く生きよう。
早く身支度整えて、今日は、玉を巻くよ!(^^)