「気を利かせる機能」が苦手です

 今朝、テレビのザッピングをしていると、蜷川実花さんが、あさイチに出ていて。

 昔、まだフィルムカメラだった頃、コンパクトカメラが、ピントが合わないとシャッターが切れないのが嫌で、ピントが合わなくてもシャッターが切れるカメラが欲しくて、買ってもらったカメラが、一眼レフだったんだそうだ。

 大きく!うなずいてしまった。

 

 さっきまで、不毛なことに、「教室スケジュール表」と闘っていた。

 スマホでも見やすいように、勝手に列の幅なんかを調整してしまうんだなこれが。

 だってさ、使い方色々なんだから、好きに使わせろ!

 気を利かせて、こっちが意図したものを、ぐちゃぐちゃに壊す。

 

 そもそも、昔から、「ワード」が嫌いでさ。

 改行の際に、次の行の頭に句読点が来るときに、勝手に前の行の文字の空間を開けて、句読点が先頭に来ないように気を利かせてくれる。

 文字制限がある文章を作ろうとして、一行当たり、何文字で、何行だから、トータルで何文字って数えたいとき、数えられない。

 勝手にさせてくれていれば、頭に句読点が来ないように、原稿用紙で書いていた時のように、自分でそれくらいやるやん。

 

 世の中の便利なオートは、何となく使う人が何となく便利な機能で。

 ちょっとヘンな事に使おうとすると、全くいうことを聞かず、「反乱」を起こしよるんですよ。

 全く、腹が立ちます。

 

 蜷川実花さんの言葉は、全くごもっともで。

 ピントをどこに合わせたいか、会わせたくないかは、撮る側の好みなんです。

 そうでなかったら、何で自己表現ができるんや。

 

 そうそう。

 ここで引き合いに出すのは、よろしくないのかも知れないけど。

 昨日の京急の事故、ナビが教えてくれたから入ってみれば、ハンドルが切れない道で立ち往生して、右折をあきらめて左折で入ったら踏切で、そこでも動けなかったんじゃないかって。

 真実は分かりません。

 ああなんか。

 自分主体で、道を決めていた時には、知らない道には入らなかったかもしれない。

 分かんないですけどね。

 

 今、本屋で平積みにしてあったのを見つけて、山口周さんの「NEWTYPE ニュータイプの時代」という本を読んでいます。

 まあ、ニュータイプというのは、比喩でしょうね。

 ここで書かれている「オールドタイプ」は、昭和の時代に確立されて、平成の世まで引きずった、「現代教育」への適応性が良い管理しやすい聞き分けの良い個体であって、枠組みに填められるのが嫌で、自分で納得しないと気が済まない聞き分けの悪い管理しにくい個体を、「ニュータイプ」と呼んでいるんだろうと思った。

 まあ、言うてしまうとですよ。

 ニュータイプは、先生からしたら、やりづらくてしょうがない、親からしたら、理屈で親を論破してしまう、いちいちこだわるからめんどくさい、意固地で、協調性のない子供だったことになる。

 いや、意固地でなくても、論破せずとも、分かり合えないと見るや、黙ったまま、引きの姿勢で、関わらない。

 そういう、本当の自分の考えを曲げてまで従うのはまっぴらだと思っている個体だということなんでしょうね。

 協調性がない、自己主張が激しい、物事にこだわる。

 まったく、世の中に受けなかった個体。

 下手したら、発達障害とか、パーソナリティ障害とか、あらゆるまっさらの出来立ての「ラベル」を貼られしまう個体だったってことですよ。

 山口さん自身も、経済なんかの分野で、未来を「予測」することそのものが、矛盾を含んでいて無理だと書いていて、そこを線形に推移する未来を無理やり予測させられていた、そのことに、本当は疑問や不満があって、引きで見ながら、求められる答えを出していたってことなんだろうなあと、思った。

 まだ、読み始めたばっかりですけどね。

 

 ホンマに、ニュータイプの時代なんて、来るんでしょうか?

 いやいや、評価が低くて、否定されていただけで、昔から、いたと思いますけどね、ここでいうニュータイプ。

 ホンマに来るんでしょうか?

 難しいなあ。

 なんてったって、人類は、社会的生き物で、大集団で暮らしていて、周りに合わせておかないと集団が維持できなくなる恐れなんていうのもある訳ですから。

 

 そんなこんな、脱線をしつつ。

 解除機能の付いていないオートが、大嫌いだ!

 ホンマに、反乱やで!

 と、空に向かって、叫ぶ私がいた。

 疲れました。(TT)

 あほ~!

 オートなんて、大嫌いや!!!

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